人生の山中にて

なんかあったら、書く

今をときめく人たち

今日、本を買った。タイトルは、『1篇の詩に対する60日間の考察の記録』と言うもので、著者は及川俊哉、髙塚謙太郎、中家菜津子、永方ゆか、松本秀文、山田亮太そして+谷川俊太郎となっている本だった。もしこの中で、二人以上の著者を知っているならば(谷川俊太郎はみんな知ってるもんね)。中崎町サクラビルの“葉ね文庫”という本屋さんにぜひ行ってみてください。とてもよい空間でした。特に、歌集・詩集に関してはどこよりマニアックなのだと思う。

 

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立ち読んだ時点でこれを買おうと決めた理由は1ページと2ページにある。こんな感じになっていた。

 

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めちゃくちゃ面白いやないか。こういうの大好きだ。しかも、詩のチョイスがスバラシイ。。。俺は詩そんな得意じゃないし、あんま知らないけど、なんか考察しがいがありそうなもの選んできている。いいなこれ!!!と読んでいたのですが。この辺で、店の中がざわざわし始めた。

 

 

『〇〇さんですか!!!私、本当にファンなんです。名前は△△といいます!!』

 

 

どうやら、何かの有名人がいたらしい。俺は全然知ったこっちゃない人だった。

 

 

 

 

 

 

しかし、その有名人の連鎖が止まらなかったのである。俺が外に出るまで、おじいさんんが『ほー。君あれか、あの作品を書いた人かーー話は聞いてたけど。』みたいなことがずっと続いていたというか、さっきのファンなんです。と言っていたガールもなんか名前を認知されているちょい有名人だったりした。

 

ネタバレをすると。その本屋は、歌集・詩集を中心に集めている本屋さんでオーナーさんに聞けばこのような本を買う場所がどんどんなくなっているからそれをどうにか作りたかったのだそうだ。さっきの有名人たちは、現代詩集という刊行の本だったりに作品が載ったりする人たちで、そんな人達が本屋さんを中心に関係が広がる場になっていたみたいだった。

 

当然、そんな本屋に置かれている。『一篇の詩に対する60日間の考察の記録』なんてへんてこな企画本が只者なわけがなく。そもそも余白という詩はこの企画のために谷川俊太郎さんが書き下ろしたもので、考察をする6人もオーナー曰く、“今をときめく詩人”なのだそうだ。僕は全く知らない人だったが。いまをときめいていたのだ。ちょうど、ばらかもんという書道のアニメを見た時も思ったけど。知らない世界で、知らない方法で、知らない人たちによって、ときめいていたわけだ。

 

 

“未知の扉を開けてしまった感”がたまらなかった

 

 

 

普通の本も、江國香織村上春樹となんだかエッセイよりで。チョイスが偏ってたのも好きだったし。またいこうと思う。本も早めに読もう。

 

 

以上。

※最近は、Young never beachとsuchmosというバンドが僕の脳内でときめいています。是非に。

 

 

白鵬の変化と2008年全英決勝

こんばんは。ESを書きたいのにナダルVSフェデラーのことが書きたくて仕方なくなってしまった人です。こんばんは。やまゆです。

 

 

まぁきっかけは白鵬が変化で優勝しましたってニュースですよね。はい。僕は、相撲はわかりませんので正々堂々がいかなる文脈なのかわかりません。ただ、白鵬の勝ちたかったというコメントで泣いたところにとても共感したというか。ぶっちゃけると、周り黙ってろコラ。真剣とは、真の剣で抜きあうことであり、試合とは死をかけた戦いなのだみたいな事を言いたくなるわけであります。(勝てばいい思考はサッカーで身についたなって思う。マリーシアという言葉が正義になるスポーツだから)

 

ただ、王道が存在して欲しい。という気持ちは僕もとても良く分かります。こんな話が出てきた時、いつも2008年の全英決勝フェデラーVSナダルの試合を思い出します。僕は、サッカーをやっていたのですが、テニス家族だったのでなんか知らんけど全英だけは見る機会がずっとあったわけです。だから、テニスやったこと無いし超素人です。ただ、この2008年の試合は素人目でも凄い試合だった。というか物語ができすぎていた。

 

 

錦織が有名になりビッグ4の名前を知られるようになりましたが僕が高校の時は、テニス界はフェデラーナダルの二強時代でした。2008年全英決勝は、フェデラーが勝ちまくっていたところにナダルクレーコートで勝ち始め、最後の砦として球のスピードが一番上がると言われている芝のコートのグランドスラムである全英でフェデラーが初めて負ける試合でした。

 

いまのテニスシーンであっても王道といえばフェデラーという回答になると思います。まずプレーが全てにおいて安定している。隙がない。動揺もない。勝負どころが分かっている。もう、何においても一流過ぎて、更に言動も紳士すぎて。王道中の王道。とにかく、何も言うことがない選手に見えました。

引き換え、ナダルは左利き、独特な回転の弾道、尋常離れしていたフットワーク、野獣のような顔、ルールの逸脱を厭わないマイペース、神経質な性格ともうなんて象徴的な選手なんだと思っていました。王を倒すためにステータスを1つのところに集中させたプレイヤーって。ゲームか。漫画かよ。って思ってたんです。

 

 

ただ、これでもフェデラーは倒せなかった。この、異次元のプレイヤーでもフェデラーは負けなかったんです。2006年、2007年フェデラーは全英でナダルに負けませんでした。

それだけ本当にフェデラーが強かった。どれだけ、すごいフットワークを見せた1ポイントであっても次のサービスでエースを取る。どれだけ緊張するシーンでも冷静にドロップショットを決める。そして、かきあげる髪の毛。光る全英連覇の数字(当時、フェデラーのウェアとかに連覇してる数字が入ってた)みたいな。本当に圧倒的だった。

 

ただ、ナダルがそこで絶望して何もしなければ2008年の優勝は起こらなかった。ナダルは諦めなかった。弱い部分が、平均値が低ければ絶対に勝てないと、自分のプレーの弱みを潰し始めます。そのおかげで、2008年までの3年間で圧倒的に弱かったスライスとネットプレーがうまくなります。素人目でも、感動的なぐらいにうまくなる。

そして、2008年の決勝では、フルセットまで行く中で4セット目までほぼ全てサービスをバック方向に打ちます。本当に9割ぐらいがバック方向だったと思う。これは、本当に異常な事で、フェデラーが完璧であるという信頼があって、1%でも悪いリターンが返ってくるためにはフォアーではなくバックに打ち続けるしか無いという判断でした。

そのバックを攻め続ける事が5セット目になって花開き。フォアー方向のサービスを混ぜ始めることで主導権を握り、勝ちました。

 

もう最後の方とか何が起こってるかわからないほどの歓声が起こって。でも、サービスの瞬間は一気に2人だけの世界で。あれ生で見てた人は一生話続けるだろうなって思う。とても異常な空間だった。

 

 

で、結局何が言いたいねんって話なんですけど。王道であるべきという主張は、あっていいと思う。圧倒的壁になって、他の人達がモチベートされる圧倒的な、もう正義か悪かわからないような王道。

でも、やっぱり勝つためにどんなことでもする。誰が言おうと構わない。って姿勢もやっぱりスポーツの上で必要だと思うのです。そうでなければ。競技自体が極まらないと思うのです。王道だけでは。王道対王道では、きっとどん詰まりです。どんな邪道をも倒せる事だけが王道の王道たりうる理由だと思うので。相撲の文脈でどうなのか僕にはわかりませんが。邪道に負ける王道を求める人は、居ないはず。ならば、邪道で勝つ者をちゃんと賞賛するべきだと思います。いつか、それを越える王道を持つ人がこの競技に現れることを信じて。

 

以上。です。

ちなみに僕は、ナダルが一番好きです。プレースタイルからピークを保てる期間が短いと分かっていても自分の強みだけを信じてフェデラーに立ち向かっていくあの姿を僕は一生忘れられないと思います。

 

 

 

 

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展・藤村龍至編

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展藤村龍至

目次

  1. 郊外という論点

郊外を生きる:三浦展×馬場正尊×水無田気流×清水健

論点としての郊外地図:門脇耕三

郊外論/故郷論-虚構の時代の後に:浜崎洋介

『郊外の危機』とコンビニの可能性:新雅史

  1. 郊外再生の現在地

ケアの空間を地域のコアに:上野千鶴子インタビュー

建物・人・お金を再起動させる仕事:鈴木雅之

多摩ニュータウン再生:松本真澄

なぜここだけが生き生きとしているのか:田中元子

  1. 郊外から日本の未来へ

朽ちる郊外の再生戦略:根本祐二インタビュー

郊外住宅地再生への挑戦:東浦亮典

コミュニティアーキテクトを目指して:水谷元

くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?:柴田健

 

三浦展さんと藤村龍至さんが編集をしているが、上野千鶴子さんなど社会学系や建築系の人たちの対談形式の文章と50pぐらいの単著の文章が並ぶ。単一視点じゃなく、複数の視点から同じテーマである郊外の問題や最近の動きについて社会学、建築、計画系、公共インフラ系から語られている。同じ郊外というテーマだから、お互いの意見が相反する場合もあったり重複したりして文章ごとが繋がって頭に入ってくる。ただ、どの人たちにとってもこの郊外という場所での動きが、面白いテーマであることが伝わってくる。基本的な背景としては、均質な、快適な、選択可能な場所としての夢の終着点としての郊外が、社会学で言う夢の時代から虚構の時代に移り変わり、その虚構の均質性が変質して漂白されていた問題点が浮き彫りになっていく。現在は、それだけではなく高齢化や都市回帰による空き家問題など郊外をどのように“畳む”か、“再起動”するか、“持続可能”にするか?という議論がなされている。

 

全ての議論を網羅して書くのは難しいので、とりあえず気になったものをピックアップする。まず、1の”郊外を生きる”では、そもそも郊外は、安全であるのか?子育てに適した場所なのか?という速水さんの指摘をそれぞれの対談者がその切り口について話をする。郊外は、ヨーロッパから始まり子育ての際の都市的な悪からの回避(家族主義)と自然を求めて郊外へ行くのが始まりである。この都市的な悪が誇張されているのではないか?そもそも、現在は子育てに関するリソースは都市のほうが多くあり、そのようなリソースへのアクセスも都市に住むほうが簡単である。また、交通事故も郊外と都市統計的に変わらない事が示される。その中で、では、郊外はなくなっていいのか?という話になり、最終的に郊外の都市化について議論があり対談は終わっていく。ここでの“都市化”とは“都会化”と異なる。“都会化”とは、消費の場としての都市のようになることを指し、ショッピングモール等は郊外の都会化と言える。それと逆に”都市化”とは、生産の場としての都市を指しており、郊外で生産を行う。つまり、郊外で住んでおり、郊外で働く職住近接の形をもっと作っていくべきであるという話である。また、郊外は私有意識が強すぎる。ことも指摘されていた。そのため、公共を作り出すことが難しい。ただ、均質的な、選択した、与えられた、住むだけの場所(私有空間)ではなく公共性をもった場所としてどのように再生産していくか?という事も今後考えていく必要がある。(これは、2の”なぜここだけいきいきしているのか?”で書かれる”ユーカリが丘ニュータウン”が一つの解をだといえる。)

 

次に、郊外の絶望をえぐるように書かれた章が、”郊外論/故郷論-虚構の時代の後に”である。まず、ニュータウンとは上述した夢の時代の産物である虚構の街である。そこには、選択可能で偶有性の高い、ここ以外でもありえた感の高い街であり、それを自分の故郷とするために必死に演技をする街が出現する。建物は均質であり、住む人も居住時は同じような年収で同じようなサラリーマンの父と主婦の母をもつ家庭である。(しかし、この”同じような境遇の人達”はどんどん変わっていくことが3の” くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?”で示される。) そこには、”地域の人”というものはなく、いたとしてもその地域の人が居場所を提供することはない。子供にとったら、家族軸と学校軸しか持たない街となる。(これは、江 弘毅のいう街的な場とは対照的な場である)。そのような場で、家庭崩壊がおき学校でもダメとなると子供は居場所をなくすことになる(宮台真司は、その先に第四の空間という都市的現実に子どもたちが解き放たれたとしているらしい(引用元:まぼろしの郊外,セクシュアリティの社会外))。この家庭に閉じ込められた中での学校軸がなくなり行き場を失った最終的な極点として、酒鬼薔薇聖斗が誕生したとしている。この虚構の街は外部が入り込む余地を残さず、自身が外部を自認できないことで内閉してしまう。その外部性を回復されるためには、上述した偶有性が高い場ではなく、この場所でなければならなかった。という外部からの要請(場所や人の歴史)が必要であり、与えられた何かに自分が溶け合おうとする経験が必要だとする。

最終的に、この著者は郊外の均質性や漂白された場が汚くなっている事を見てそこに”死”があることを見出す。ここから、郊外が”歴史”を持つ場となりうるとし、故郷になりうる場所だとして文章を終える。

ここからは、僕の個人的な話だけど僕は田舎の郊外というべき場所に育った。第四の空間というものは存在しなかったし、地域の人というものを自覚したことは無い。(友達のお母さんぐらいだ)しかし、僕には学校軸の充実があり、家族軸の充実も幸いにもあったため何も窮屈は感じなかった。しかし、中学校時代には謎の中高生のヤンキー集団があり、夜はバイクの音がなっていたりした。あれは、たぶんそこ学校と家族軸を失った。第四の空間を田舎なりに作ろうとしていた子供達だったんだろうなと、今になって思う。

 

最後に、上野さんと藤村さんの対談である。上野さんはいつもどのようにソフトライディングするか?という問いをもっている。(以前読んだ、古市さんとの対談本である”上野先生勝手に死なれちゃ困ります。僕らの介護不安に答ください”にもそのようなスタンスだった。)。郊外のたたみ方について藤村さんは建築から上野さんは社会学的にその可能性を話し、建築の人たちは建物から人がどれほど移動するかを考慮していない、もしくは距離だけで考えている。と批判し、社会学的に郊外の人たちが思ったよりも移動していることからもっと大きな規模でまたは、距離だけでなくもっと違う心理的な問題を把握すべきだと話をする。その前提の中で、心理的なハードルをいかに下げてアソシエーションによって結ばれる空間を作るか?という問いに移り。事例を踏まえて話をする。上野さんの結論としては、ケアをそのコミュニティに置くことで人が必ず出入りする空間を作ることができ、その関係を利用して新しい仕掛けを作っていけばいいのではないか?としている。ここでのケアとは、学童や介護などを指し、居酒屋状態である加入脱退が自由、強制力がない、包括的コミットを要求しなアソシエーションのある場を創造すべきだとしている。

 

このような感じ。とりあえず、地方分権が進んできており、独立自立したコミュニティというのも成功しつつある。僕としては、郊外を都会化ではなく都市化するという流れに期待したい。その都市化は、地域のための生産であってもいいし、それ以外であってもいい。とにかく、距離が近く、働きながら精神的に住む街に馴染めるような場が増えるようになって行ってほしい。これは、僕が石橋の近くで住んでた事がとても影響しているなと読みながら思った。

 

メモ

地方は、ハードの導入ハードルが小さい

→知識や人材、アクティビティがあっても土地が高いからハードが入りにくい。

地域のインフラを民間に預ける。その民間は、他の地方自治体にもサービスを提供している。

 

名言

学童とは、いわば子供の居酒屋,上野千鶴子

出典している本、論文

朽ちるインフラ

家族をいれる ハコ家族を超えるハコ

東京は郊外から消えてく!

次世代のアメリカの都市づくり

ケータイ小説的。

公共性の喪失

まぼろしの郊外,宮台真司

透明な存在の不透明な悪意,宮台真司

つながった本(未読)

つながった本(既読)

飲み食い世界一の大阪 ~そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの~

→居酒屋、お好み焼き屋さんは街の先輩に会える場所。地域にあるもう一つの居場所

 

検索したくなるワード

夢のみずうみ村

武蔵野市 テンミリオンハウス

神戸市 真野地区

横浜市 NPO支援

アートコミュニティ 美浜

ユーカリが丘

コミュニティリビング;IOG

定年ゴジラ,重松清

 

コミュニケーションのアーキテクチャを設計する

この夏とりあえず、建築、都市計画系を中心に読めるだけ色々読もかなーと思ってます。もうインターン落ちてもまぁいいかなとか思ってます。。なんかお勧めあればよろしくお願いします。スマートシティ系でもいいです。あと、村上春樹全部読もうかなとかも思ってます(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ

 

読んだら、文章化したほうが後々良さそうなのでとりあえず書きました。構成とかなんかアイディアあったらくださいな(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ

 

でわ。

 

コミュニケーションのアーキテクチャを設計する

彰国社 山崎亮×藤村龍至対談

目次:

1建築家とコミュニティデザインナーの共通点とは

2 建築家のノウハウを使ってコミュニケーションの設計をする

3 建築家はアーキテクチャについてもっと語ろう

4 一人一人の価値をエディケートしよう!

 

『つくらないことをつくる』ことについて都市計画系から建築家へ入った人である藤村さんと建築系からコミュニティ系に入った山崎さんの対談本である。しかし、藤村さんからまずまえがきで釘を打たれる。『つくらないことをつくる』ということは作ることができないひとがつくらないものをつくるのではない。作ることによる限界を知っているものだからこそその先のつくらないものの価値を見いだせるのだと書かれている。作ることができない自分としては肝に命じるべきだろう。

さて、対談者ふたりともが建築畑だから建築をベースにして話がされる。二人共が感じていることとしてまず、そもそも論に立ち返ることで、この建物は何をするためのものなんだ?何を目指すんだ?を明確にして実現する。実現方法が、建築でできること、建築でなくてもできることがある。建築により目的を達成するために、住民と一緒に一つ一つのステップごと建築を考えよう。反映させようとしているのが藤村さん。いや、その目的って建築じゃなくてもこうゆう方法でできますよね?と建築でなくてもできる部分(ソフトの部分)を主に提案しているのが山崎亮さん。お互いの共通点は問題を明確化しそれに対する答えをたたき台としてまず提案する。そのたたき台から、あれがいい、これは違うとそれを利用する人たちの欲望や無意識を導入する隙間をもって企画がなされる点。さらに、そこで出来たコミュニティを利用する。つまり、手法によるコミュニティ形成と目的の達成を同時に行う事を心がけている点、最後にコミュニケーションによる作成過程の重視にある。

本書の中で山崎亮さんはコミュニティデザインは3つ時代があったとしている。第一は、ワルダー・グロピウスのコミュニティの再建で語られるようなどのようにしたらコミュニティなるものに人が集まるかを建物の配置から行おうとした計画の論理の世代、第二世代が公共施設のデザインはコミュニティと共に進めましょうとした世代、三代目が山崎さんらのコミュニティエンパワーメントと呼ばれる建てる事を前提としないコミュニュティデザインとなる。3つとも同じ目的(コミュニティを活性化されよう)を持つが違う手法を持って目的に達しようとしていることが分かる。また、世代を経る毎に人により直接的に関係しようとしている。藤村さんの手法が第二世代に見えるがその違いは、施設のデザインに住民たち自身の意見が通っているかをプロトタイプを作成することによって可視化できていることと、その後建物周辺のコミュニティまでコミットしようとしている事が違いとなっているようだった。

このような話を聞いていてAQUA Social Fesを思い出した。AQUA Social FesはAQUAというトヨタの車の宣伝を電通に頼んだ際に電通の岸さんという方が流れていくだけの宣伝ではなく、各地でソーシャルグッドな行動なり、イベントなりをAQUAがバックについて行うことによって人や自然、場所の中にその宣伝や影響を固定しようという広報行うというものだった。成功したかどうかは、分からないが現在も自分の関わった団体がイベントを共にしていたりする。このようなつながりを創って価値を作ることはストックが飽和した中で今後増えていくのだろう。飽和したからこそ、そのストックでどうするか?という話なのかもしれないし。

 

 

読書時メモ

名言

はたらくは、『はた』にいる人を『らく』にすること

 

出典している本、論文

ワルター・グロピウス:コミュニティの再建

ランドルフへスター:まちづくりの方法と技術―コミュニティデザインプライマー 現代企画室

建築をめざして:鹿島出版

ハンス・ホライン:全ては建築である

見えない都市:磯崎新

一般意志2.0:東浩之

 

つながった本(未読)

評価と贈与の経済学:内田樹岡田斗司夫

 

つながった本(既読)

動物化するポストモダン:東浩之

弱いつながり:東浩之

 

検索したくなるワード

北海道 建築学会 

横浜 東横線 廃線:URL http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/toshiko/atochi/

アジャイル開発: http://www.nec-nis.co.jp/ja/column/01_agile.html (2015/08/03)          

横浜ハーバーシティスタディーズ:http://www.yhcs2012.com/

レム・コールハース 『行動主義 レム・コールハース

磯崎新 

Any会議 http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/746/

乾久美子:特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.1 乾久美子インタビュー

http://openers.jp/article/21337

Art and Architecture Review: https://aar.art-it.asia/top/ 

自転車の法律ができましたね

こんにちわ。

自分のサーバーが気がつけば使えなくなっていて、もういいやはてなで書こうと思ったら。もうすでにはてなで登録済みだったという過去の自分のよくわからない行動を目の当たりにしました。

 

とりあえず、なんか書きたくなったら書きます。

 

で、今回は自転車の法律の話ですね。自転車の法律が変わりましたね。
サイクルベースあさひさんが超わかりやすくまとめてますね。気になる人は見てみてください。

www.cb-asahi.co.jp

 

とりあえず、ざくっとまとめますと。自転車の『危険行為』が定義づけられました。
さらに、これらの危険行為を行うことによって罰金が生じる。講習を受けなければならなくなりました。危険行為についてはサイクルベースあさひさんのサイトを見れてわかると思います。

 

この法改正何が面白いかって、“自転車”に対する危険行為を定義したってとこなんですよ!!

免許とった人は、知ってると思いますが自転車はママチャリとかロードとか関係なく軽車両(原チャとかと同じ)です。軽車両なので、車道を走ってはいけない事になっています。今までは、軽車両という分類の中で自転車が法律で裁かれていました。だから、自転車が歩道で歩行者にぶつかった場合100%自転車が悪いです。もし、歩行者側がぶつかりに行ったとしても警察を呼べば自転車側がアウトです。※なので、自転車同士の事故が起こりそうな場所は絶対に自転車押して歩いてください。万が一が起こっても何も取られません。

今回の法改正でもその立場を崩しておらず、『自転車は歩道しか無い状況で歩道を走る場合歩行者の妨げにならないように徐行しなければならない』という歩道通行時の走行方法違反という危険行為があります。

 

ただ、原チャではアウトなはずの歩道の走行を条件付きで認めています。(でも、事故ったら100%払えよとは暗に書かれてる。)

 

これは、逆に自転車の権利を原チャと分離して認めてもらえた。という事で、今まで、歩行者と原チャの狭間でひもじい思いをしていた自転車の立場。逆に言えばそれを隠れ蓑にしてどこでも走り倒していた立場をとりあえず分離しようという。ということになったわけです。これは、自転車ユーザーとしてすごい嬉しい。ちゃんと守っている。と言えるわけですから。逆もしかりですが。

 

 

そんでもって、権利が認められたわけですから空間的にこれらの権利を守ろうという動きが出てくるのは当たり前で。。。。自転車推奨ルートというものがでてきましたね。代表は渋谷区ですね。下に詳細貼っときます。なげぇけど。

http://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/plans/pdf/bike_anzen2.pdf

 

この計画では、自転車安全利用ネットワークとして自転車道路の重点整備される区間を作ることを都市計画に含めると書かれています。

自分的には、道路を整備することよりも推奨ルートとルートナンバーを付けること。ルートマップを広めることが重要だと思っていて。道路が整備されたところでそこを通らなければ意味が無いし、自転車関連の施設やら自転車関連の店の出店の基準にもなるし。トロントの自転車推奨ルートはマップは無料だし、ルートには車と同じく看板がありました。かなり充実してたと思います。

Cycling Map - Bikeway Network - Cycling | City of Toronto

 

 

こっから、妄想なんですけど。自転車が更に権利を持ってくるとなると2つの事が起こると思ってて。

 

1.歩行者による歩道に自転車を入れないようにする運動

歩道は、歩行者のものです。自転車の立場がはっきりした以上。歩行者は、自転車に対して強く出ることができるようになります。恐らく、いままで自転車が歩道を走れていたのは自転車を降りるための走行がずっと続いているという謎の認識によってグレーに認められたものだから。

さらに、そのまま歩道かつ自転車道である歩道(視覚的に分離されていたり、歩道内で物理的に分離されてたりする自転車道がある歩道)をなくす動きが出てくると思います。そもそも、あの分離方法は走っている人や歩いている人からしたらほとんど意味のない分離で、事故も普通に起こるからです(自分の体感)。自転車を車道に走らせる動きが出てくるでしょう。

 

2.じゃあ、ママチャリとロードバイクはどうする?

このへんで、ママチャリとロードバイクは同列に並べていいのか?という議論が巻き起こります。どうなるんでしょう?わかりません。ママチャリは、日本ではかなり優勢ですが海外では最近ローテク商品として注目されてきただけで、ママチャリ優勢の中でどのような制度設計が行われるかわからないです。すごい楽しみ。社会的な議論が起こるような。というか、起こって欲しいなというのが僕の気持ちで。分離するんだろうか。じゃあ、道路は?みたいな。危険度ではどっちがどれだけ危険なんだろう?とかすごい気になります。

 

カナダ滞在中に写真投稿しましたけど。この写真に見える。市民と行政の泥臭い議論が見えるのっていいじゃないですか。世界を変えてる感が。市民が。生きたい方向にどんどん要望を明確化して、行政が泥臭く対応していく。みたいなそうゆう過程楽しいじゃないですか。グレーゾーンで事故が起こって形骸化した法律を使いまわすよりも。その足場がやっと出来たなと思っております。

 

そんなこんなで、とりあえず自転車の立場が明確になったのすごいいいね!って思ったので書きました。でわ(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ

 

 

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