人生の山中にて

なんかあったら、書く

二年前に亡くしたはずの友達について

 

はろー。山中です。来年度から大阪で働きます。仲良くしてね。修士論文を書き終わり、副専攻の単位も全て取り終わったので計画通り卒業とあいなる予定でございます。はい。来年度からもよろしくお願いいたします。

今は、寝る、走る、ゲームする、本を読むだけの要素で生活をしています。

 

今回は、二年前に亡くした友達の話をしたいと思います。かなり個人的なものです。

 

僕はまだちゃんと彼女の喪失を悲しめていないという焦りについての話であります。何の教訓もありません。が、僕と同じようなしんどさをもった人もいるのではないか?ぐらいに思って書いております。

 

 

二年前、突然亡くした

 

亡くしました。サークルの同期でした。知っている人もいると思うけど、ちろとい名前の、名前は違うのか。とにかく、ちろの話です。

 

亡くした日、東京のサークルの同期から電話があり、男性の同期に電話をしてほしいと言われました。いやー、とんでもない体験でした。人が亡くなったことを何度も伝えるのってとんでもなかった。当時は、卒論も佳境の佳境でお葬式とお通夜どちらも行ったことを指導教官に諌められたりしました。(こちとら、友達亡くしとんじゃと思っていた。)

とにかく、不意打ちで何も考えられないまま事態は進み、さらに言えば卒論が忙しすぎてよくわからないテンションでその時期を乗り切り、気づいたときには普通の生活が滞りなく進んでました。

 

 

まぁそんなこんなで、ふと気づいたら、僕はちろがなくなったことを悲しむことがないまま生活を送っており、何も泣けないまま、泣くことだけが悲しみを体現するものではないことはわかっているのだが、何も悲しまないまま、普通に生活を送ってたわけです。

 

これは結構深刻だと思いました。めちゃくちゃ焦りました。

僕は全く悲しんでいませんでした。今もあまり悲しめていません。そのせいで、彼女が僕にとって大切な人ではなかったのではないか?みたいなよくわからない焦りをもっていたりしました。

それを否定するため、悲しみの不在を埋めるために、爆心地に行けば分かるはずだ。と、この二年間、3回ご家族に会いに行ったりもしてました。でも、いまいちしっくりきていない。

 

いやいや、人生は初めてか?力抜けよ。状態なのですが。悲しみがない事=大切ではないのではないか?という式が成立するのはなんとなく伝わるものなのではないかと思う。

 

 

 

少なくともここにあったと疑いもなく思える心持ち

 

江國香織さんの『号泣する準備はできていた』のあとがきがとても好きで、僕は何度も読んでいるわけだが。その中にこのような文章がある。

 

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。
そして、それは確かにそこにあったのだと思う。
かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短篇集になっているといいです。

江國香織 号泣する準備はできていた あとがき抜粋

 

 

この文章で書かれていることを結構信頼していて、悲しみは決定的な喪失からもたらされるものなのだと思う。

当然、喪失していないのに悲しめていない自分は、この文章を思い出し、亡くした友達が自分にとって、「少なくとも確かにここにあった」と思うほどの人ではなかったのではないかと解釈しはじめていた。解釈できるなと思って結構長い間苦しんでいた。

 

解釈をして、それは絶対にないと思って、思いたくて、過去の交流とか引っ張り出しながら、彼女はここにいた。僕は彼女の一部を所有していた。と言い聞かせながらしんどいなー、なんでこんな言い聞かさなあかんねんやろ―と思ってた。

うーん結構しんどかった。(関係ないけど、お盆ってしんどい日なのねってこの二年で知った。)

 

 

 

そんななんやかんやしながら、去年、転機が来た。鷲田さんの本やら友達と話をしていて、僕は、まだちろを決定的に喪失していないのだと。悲しみの方じゃなくて、喪失の方をちゃんとしてないんだと気づいた。

 

 

不在感の不在

 

そう。僕は、まだちろのことを決定的に喪失していない。例えて言うならば、彼女はまだスウェーデンから帰ってきていないぐらいなのだ。

 

僕は、彼女がここにいたと疑いようもなく思えることができる。でも、それは過去形で「あの時、ここにいたと疑いようもなく思えていた」のだ、よく考えれば彼女との交流は亡くなる半年前から途切れていた。そう考えると緩やかに喪失しかけていたのかもしれない。でも、絶対にまた、なんとなしに会うだろうし決定的に重要な役割を自分の人生の中でしてくれる存在だろうと思っていた。決定的なお別れでは絶対になかった。それは確信を持って言える。ただ、繋がりのグラデーションが薄い時期だっただけなのだ。そして、そのまま薄いまま、生存と不在をシームレス越えてしまったしまったのだ。

つまり、「彼女が不在になったという感覚が今僕に不在」のまま本当にこの世から不在になってしまったのだ。僕に決定的な不在感を与えぬままに。

亡くなった人を穏やかに思い出すためには、不在になったことから接続するしか無い。「いた」ことは、「今、いない」ことを通らずには話が通らない。そして、「今、いないこと」を感じるためには「いるはずの場所にいないこと」が必要であり、僕の場合、サークルの中でちろがいないことを語ることでしか決定的な喪失感の不在は埋めないのではないかと思う。

 

 

ちろの話をしよう

どうか皆さん、ちろの話をしよう。少なくとも僕には、みなさんと話さないとだめな理由がある。だいたい社会人になって多忙ではあるがちろの話をしよう。

それもネットとかではなく直接。見えないところで。見えるところで文章を書いている僕が言うのもなんだろうけど。よくわからないけれど。彼女のご両親から知った新しいちろの話もあるし。

 

たどり着いた文脈やらは、違うだろうけれど、崎浜ともそうゆう機会を作らないとだめだとちろの家に一緒に行った時に話をしたし。たぶん、ちろを知る人はだいたいそう思っているだろうけど。

いつになるかわからないけれど。場所は、ラーメン屋さんになるとおもうけれど。

 

 

 

以上であります。

書いてるときに盛大に泣きました。その為、この文章は盛大に矛盾をはらんでるますwまぁいいや。とても、すっきりしました。

 

 

 

2016年に聞き始めたアーティストの勝手なまとめ

やまゆーです。

修論ほっといてスリランカに行きます。

行きます。

最近気づきました。youtubeをガンガン職務中に聞ける環境でないと、ここ三年間のような、パソコンついてたらずっと音楽聞いてるみたいなこと今後は起こらないわけです。

なんてこった。なわけです。

 

そう考えると、この三年、人生の中でも特殊な、新しい音楽を聞きまくる環境かつ時期にあったわけです。もう俺の人生の中で知ってるアーティスト貯金もしかしてこの瞬間が最大なのではないだろうか。別に、多く知ってるからどうなんやみたいな話やけど。

というわけで、なんとなく、今年聞き始めたアーティストやら曲やらを、まとめておきたいなって思いました。ちなみに、僕全く楽器できませんし、専門的な事わからないんで。なんとなくすげぇ!!ぐらいの感じです。物好きの人は、最近この曲好きやねんみたいなのあったら教えてください。修論スリランカのお供にします。よし。行くぞーーー。

 

なんか長くなりそうなんで意味のない目次作ります。

 

目次

  1. 2016年、もっとも聞いたアーティストTOP3(Never young beach、Suchmos、Yogee new waves)
  2. とりあえず、この曲すごくない?篇(クラムボン、Ykiki Beat、フレンズ、天才バンド、サニーデイ・サービスBill Evans)
  3. なんか、最近、女性ボーカルバンドおおくないっすか?篇(FINLANDS、Hump Back、Homecomings、The Wisely Brothers)

1.2016年、もっとも聞いたアーティストTOP3

2016年知ったアーティストの中で、最も聞いたアーティスト。間違いなく、Never young beach、Suchmos、Yogee New waveだと思います。特に、Never young beachは、最初に聞いたときの衝撃が未だに抜けない。なんてこった。

 

Never young beach

この『明るい未来』という曲で、何度、落ちた心を復活させたことか。とても楽観的で、「これだからゆとり世代は」というような感じではあるのだけど。いや、楽観的でなくてどうするんだよ。突き抜けて幸せな歌を歌ってやるよ。「いつでも微笑みよ。そんな歌が昔あったような。今こそ、この歌を歌うべきじゃないのか?」“この歌”とは、間違いなくこの『明るい未来』だ!!!歌ってやるさ。ゆとりバンザイ!!
最近だと、『お別れの歌』って曲のMVの小松菜奈が可愛すぎる。ずるいみたいな事でちょっと話題になってましたね。

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小松菜奈が可愛すぎるMV

never young beach - お別れの歌 (official video) - YouTube

 

Suchmos

 もう、とにかく、かっこいい。取り敢えずベースが凄い好き。変態ボーカルのオーラが大物感を醸し出しててて、大きなフェスのトリにもうすぐ出てくるんだろうと思う。サカナクションでクラブミュージックなんてジャンルがあるんやと知って、このSuchmosで完全にこのゆったりとしたノリにハマってしまっている。ライブ行きたい。

 

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 Yogee new waves

 Ceroも最近聞き始めました。Yogee new wavesは、Stars onというフェスで聞きました。やっぱり、まとめるとゆるい感じに吸い寄せられているのかもしれない。社会に入ったらもっと、パリッとした曲を聞くようになるのかもなー。。ライブで聞くと、おしゃれというよりもandymoriのような感情むき出しのパフォーマンスで、完全にライブバンドです。また聞きたい。

 

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2.とりあえず、この曲すごくない?篇

ぼく、音楽してないので、曲聞いても何が凄いのかわからないですよ。でも、なんかすごくて声あげちゃったり、なんとなくエンドレスリピートしちゃうわけですよ。研究室で。そんな曲とアーティストでございます。誰か語り明かしてくれ。この曲たちの凄さを。俺はすごいしか言えんのです。

 

clammbon(クラムボン)/yet

最初に聞いた時、もう3回ぐらい、『えっ?』って言ったと思います1週間前の事です。なんやろ、こうゆう流れなんやろなーっていうのって曲を聞いてたら感じるじゃないですか。それを3回ぐらい虚をつかれるというか。どこいっちゃうの?みたいなことになって慣れてきたときのサビとボーカルの綺麗な声があー泣いちゃうーってなります。もう最初にどこで驚いたか忘れてしまったけど。なんか、とてつもなく驚いたわけであります。クラムボンもっと聞きたいです。『サラウンド』しか知らなかったので。

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Clammbon - サラウンド (Surround) [SPACEZERO] - YouTube

 

Ykiki Beat/Forever

かっこいい。The finを先輩に教えてもらって聞いた時の感じを凄い思い出した。こうゆうのUKロックって言うらしい。UKってビートルズしか知らん。なんやねん。The finのときも思ったけど。本当にこの人日本人なのだろうか・・・・?

 

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The finのリンクも載せときます。

The fin.- Night Time - YouTube

 

 

フレンズ/夜にダン

とりあえず、おかもとえみが可愛い。っていうことはタイプの差があるのだろうけど。結構前に聞いてyoutubeのオススメに出るようになって最近かなりの頻度で聞きたくなっている。今一番CDが欲しい。ずっと聞いてても、ただ、ゆらゆらしてられる。これも幸せになる系。僕にはやはり癒やしが足りないのかもしれない。猫飼いたい。

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天才バンド/君が誰かの彼女になりくさっても 

これ知ったのも、今年なのであります。Back Numberばりの悲恋の歌ですな。でも、back numberよりも女々しく聞こえないのは、ボーカルの奇妙礼太郎さんがどう考えてもモテモテにしか見えないからなのかもしれない。ちなみに、こうゆう曲かーと思ってライブに行ったら痛い目にあいます。ライブだと、ひたすらWe are 天才バンド!!!って言いまくって超かっこよくベースとギター弾き鳴らすおじさんたちです。超かっこよかったけど。

 

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 ↓完全に観客を置き去りにしていってしまう天才バンドの例

天才バンド - DANCE MUSIC FOR ME!! @ 夏の魔物2015 - YouTube

 

サニーデイ・サービス/セツナ

とにかく、MVが狂気。その中をエンドレスで流れる。シンプルなメロディー。がさらに狂気さを増していく。狂気。サニーデイ・サービス結構古い人達みたいだけど初めて聞いた。『青春狂騒曲』って曲も超おしゃれ

 

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(PV)サニーデイ・サービス - 青春狂走曲 - YouTube

 
 
Bill Evans/ walts for Debby

ジャズを知っている人は、『は?何言ってるのこいつ?』って感じなのでしょう。超名曲らしいです。全然知らんけど。僕、『Blue Giant』というジャズの漫画を読んで、ミーハーを発揮してジャズに手を出したのですが、ジャズの何が凄いって、もう本当にひとつの楽器から出てんのか?なんて音の幅なんだ?ぐらいに楽器の音が聞こえるんですよ。ガンガン鳴らしてる要素の1つだったベースやらドラムやらが、もう凄まじく細かく聞こえるんですジャズって。完全にやられてしまってこのBill Evansって人の二枚組アルバム買いましたよAmazonで。はい。ちなみに、Fly with the windって曲も超好きです。これもジャズ知ってる人からしたら何いってんのお前?級の曲みたいですけど。誰か俺にジャズを教えてくれ。もっと深みにハマりたい。

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McCoy Tyner - Fly With the Wind - [Fly With the Wind] 1976 - YouTube

 

 

 

3.なんか、最近、女性ボーカルバンドおおくないっすか?篇

いや、多すぎますよね。絶対。それとも、俺があんまり知らんかっただけなんやろうか。それとも、俺が女性のボーカルバンドを引き寄せているのだろうか。ちなみに、チャットモンチーは、2人になってからの方が好きです。SHISHAMOは性に合いません。

 

FINLANDS/ウィークエンド

いや、もう絶対売れてるやろって感じ。中毒性がある高音が、もうたまらない。しんどいときには聞けない。高音すぎて。クリープハイプを聞きまくってたときの中毒性を思い出す。

 

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Hump Back

第一声、チャットモンチーか??ってなる。3ピースだし。チャットモンチーよりも少し暗いけど、なんかすごく言いたいことがあるんだ!!!うおーーー!!って感じのバンド。

 

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Homecomings/HURTS

ヘロヘロの英語だ。って言われてるけど、やっぱり、女性のボーカルっていいなって思う。

 

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The Wisely Brothers

いや、可愛いかよ。みたいな感じですけど、ただの高音じゃないけだるい感じのボーカルが印象的。ふわっとして、可愛い感じなのに、重いギターの音がのギャップが好き。重いギターってだけで好きになっちゃう俺も俺ですけども。

 

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以上です。なんか色々抜けていそうな気もする。今年本当に色々新しいアーティストの曲聞いた気がする。これもyoutubeさんのおかげなのですが、他にも、宇多田ヒカルのアルバム神ってたし、赤い公園も新しい曲好きだった。相変わらず、きのこ帝国は冬になったらクロノスタシス聞きたくなるし、toconomaはずっと追っかけているし、勝負の朝は、今年もBrand new dawnだったりもした。今後も、どうにかして新しい曲を増やしていけたらいいなー。小説も読めなくなってしまっているし。うん。

 

 

 

 

 

 

愛で駆動する1984の世界

村上春樹の『女のいない男たち』を読んでます。強烈に恋をした相手を、“総合的な存在”と評した男が出てくる話があって、その表現流石すぎますよ春樹さんと思っているところです。

 

表題の話はジョージ・オーウェルの1984なんですけどね。。1984の世界は、ビッグブラザーという存在が一国を牛耳っていて(正確には、牛耳っていると言われている)、そのビッグブラザーへの愛を国民は強要されている世界です。この愛が、最後には成就してしまうからこの物語は面白い。まぁその面白さはさておき、この世界では常に戦時下で食料は配給制。お酒などの趣向品は使用禁止みたいな世界なわけです。しかも、それだけではなく、生殖以外を目的にした性行為はやってはいけない。つまり、個人や物ですら愛することを制限されます。愛することはビッグブラザーにのみ捧げられるように強要され、それに背くものを監視するシステムが日常的にポスター型の監視カメラが設置されるます。

 

こっからわけわからん話をし始めますけど、この世界で配給品=給料(貨幣)と仮定すると配給品は常に困窮しているので、労働力>給料の状態になります。これでは不満が出るので個人それぞれの愛の力を一国を回すために注ぐことでこの必要労働力を賄う形を1984では取ります。つまり、

 

(配給品+個人のビッグブラザーへの愛(=ビッグブラザーからの愛))× 国民  =  一国を回す必要労働力

 

という式で世界を構築するわけです。また、国民の愛への見返りは戦果として戻ってきます、例えば国が敵国を倒した。とか、ある大陸を占領したとか。そうゆうのです、つまり国民たちの愛が報われることを情報としてビッグブラザーからの愛として享受することで、ビッグブラザーへの愛を個人として再生産して世界が回っていきます。

(まぁこの“戦果”がでっち上げだという事が分かってて、きっと富を肥やしているやつが上部にいるんだけどね。)

 

さて、この愛で駆動する世界なのですが。普通に、現実にもあるなって思うわけです。配給品(企業収益)が少なくなっているので、その企業への愛で必要労働力を賄おうみたいな。この愛のカタチは、どのようなものかわからないけれど。

 

じゃあ、どのようにこの愛の強要を1984では行うかというと、まぁ再教育するんですね。拷問で。さらに、さっきから言っていた“ビッグブラザー以外への愛”を徹底的に監視する事で実質的に選択肢をなくさせるわけです。この選択肢の固定化と愛情教育が、個人のビッグブラザーへの愛情が枯渇しない状態を作り経済を回していくわけです。

 

ただ、現実はその選択肢の固定化が成立しないわけです。他者は1984の世界よりも画一化しているわけではなく多様で、自分の立ち位置は“別の場所でもありえた一つの場所”として以外の意味が見いだせない場合もある。愛情の再生産が追いつかない場合もある。

基本的に、愛情による労働力化はその愛情の再生産が追いつけば(どっかから仕入れる+そもそも仕事である程度回復する)なんとかなるし、生きていける。だけど、願わくばその再生産がどっかから仕入れ無くてもプラス生産出来る場所にいたいなって思うわけです。ただ、僕はまずはライスワークを出来るようにしないとな。将来の自己への愛を駆動させて来年度から僕は働かないとな。と、いうかこんだけ言っても絶対もう目の前の仕事にうぉーーってなる思うのだけど。

 

※書き始めたときは、全然企業との関係のことだけを意識したわけじゃなく、恋愛関係とかも想像してたのに書き始めたら企業との関係の事でしか読めなくなってしまった。経路依存性恐るべし。

 

ズートピアのエンディングが納得いかなかった話(ネタバレ満載)

ズートピアの話。【ネタバレおもいっきりします】

さっき紹介した動画の中でも紹介されてましたが。結構前に見て、モフモフのモッフモフだったわけですが。(超モフモフ)

エンディングがね。納得いかなかった事を文章に残しとこうと思って。書きました。また、時が経てば読むさ。何かご意見あればご連絡を。



ズートピアのエンディングがすごく嫌だったわけです。見てからずっと言いふらしてるのですが、やっぱりあのエンディングは納得いかなくて。(観ながら俺がエンディングを作っていた節はあるのだけど)端的にいうと『恐怖による支配を否定しないエンド』だと思っているのです。ズートピアってどう考えても現在のアメリカの風刺的な形で成立しているだけど、、その中で恐怖による支配というものを否定しないエンディングでいいのか。って思うわけです。いや、恐らくディズニー的な回答はあったと思うんですけど。なんかそれいいんかい!みたいに思っているのです。


そもそも『恐怖による支配』ってズートピアでどこで出てくんねんって話なんやけど、1.しょっぱなのウサギのジュディが田舎のキツネに傷つけられるシーン(肉食から草食への暴力による支配)。2.凶暴化する可能性がある肉食獣が近くにいるという潜在的恐怖がみえるシーン3.ジュディがニックに感じるトラウマからのキツネ撃退スプレーを構えてしまうシーン4.黒幕の羊がもつ、凶暴化を促す薬を持っているというシーンとこれぐらいかなと思ってるんですけど、これ完全にテロリズムとセキュリティの政治を反映しているわけですよ。

 

で、話の流れをネタバレ満載で言いたいことを言うためにチョイスして話すと。黒幕の羊が肉食動物への恨みがあって、草食動物だけの世界を作るために、肉食動物へ凶暴化の薬を打ち始める。それを捜索するジュディとニックが最終的に謎を解明して黒幕羊を捕らえるというものです。(もっといろんな視点で見れるのがこの映画のおもろいとこやと思うんですが言いたいことを言うために簡潔に)

 

問題のエンディングはですね、最後ニックに薬を打って凶暴化させて、ジュディを殺そうとするんですよ羊が。その時に、セリフの中で『恐怖による支配は常に成立する!!』っていって銃型の薬を撃つんですよね。ただ、その薬はブルーベリーにニックとジュディがすり替えていて、事なきを得て羊は捕らえられ、ガゼルのアイドルを囲んで多様な動物がはしゃいでみんな平等だ!!といって終わるエンディングなんですよ。

 

 

でもね、実際の世界もズートピアの世界もそんな平等じゃないんですよ。例えば、肉食動物と草食動物が喧嘩したらどうなるかってそら身体的に肉食動物が大怪我させちゃうんですよ。そう言う根本的なバイオロジカルな違いって存在している。そんで、それによる恐怖による支配が成立することは容易に想像できる。でもそんなもん全く気にしないで問題を端において平等だ。で、踊って終わるんですよ。きっと、踊り終わって朝になったらたまたま当たった肉食動物の爪で草食動物の身体は傷ついていたりしてるはずなんですよ。そこを全く言及してないんですよね。凶暴化した草食動物は動画で表現されないんですよ最後まで。恐らく、凶暴化した草食動物が明らかに肉食動物のそれよりも危険じゃないことが見えるからなんじゃないかと思ってるんですけど。

 

でね。ディズニー的な回答はこうなんですよきっと。恐怖による支配はユーモアとかアイディアでそれは回避できる。悪者は捕まえられる。みたいな回答なんですよ。きっと現実の中でディズニーはズートピアのブルーベリーだ!!っていうのがディズニーの回答なんですよ。ただ、その支配が通用する事自体は否定しないですよ。

 

僕は僕的には。最後に恐怖による支配は成立しない。馬鹿げてるんだって言って欲しかった。お互いのバイオロジカルな違いからの恐怖があるなかで、でも支配はされないぜ、共存するぜっていうエンディングがねよかったんですよ僕は。臭くても薬撃たれたニックが愛に目覚めて助かるエンドがまだよかったんですよ。一瞬ジュディがキツネというトラウマを克服する部分でそのエンディングになるかなって思ったんですけど。最後、いろんな内包する問題をほっといてワイワイエンディングだったのがすごい納得できなかったんですよね。

 

 

僕的には、あの後。ズートピアが絵本の世界で、現実には、肉食動物の爪と牙を引き抜いて草食とバランスをとる集落と肉食動物と同等の武装をすることでバランスを取った集落があって。そのなかで、牙を抜くことを否定して捕まった肉食動物と過武装して捕まった草食動物の物語が始まってくれたほうがねいいなって思うわけですよ(超絶妄想モード)

 

というズートピアの話でした。映画楽しい。以上

 

 

 

今をときめく人たち

今日、本を買った。タイトルは、『1篇の詩に対する60日間の考察の記録』と言うもので、著者は及川俊哉、髙塚謙太郎、中家菜津子、永方ゆか、松本秀文、山田亮太そして+谷川俊太郎となっている本だった。もしこの中で、二人以上の著者を知っているならば(谷川俊太郎はみんな知ってるもんね)。中崎町サクラビルの“葉ね文庫”という本屋さんにぜひ行ってみてください。とてもよい空間でした。特に、歌集・詩集に関してはどこよりマニアックなのだと思う。

 

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立ち読んだ時点でこれを買おうと決めた理由は1ページと2ページにある。こんな感じになっていた。

 

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めちゃくちゃ面白いやないか。こういうの大好きだ。しかも、詩のチョイスがスバラシイ。。。俺は詩そんな得意じゃないし、あんま知らないけど、なんか考察しがいがありそうなもの選んできている。いいなこれ!!!と読んでいたのですが。この辺で、店の中がざわざわし始めた。

 

 

『〇〇さんですか!!!私、本当にファンなんです。名前は△△といいます!!』

 

 

どうやら、何かの有名人がいたらしい。俺は全然知ったこっちゃない人だった。

 

 

 

 

 

 

しかし、その有名人の連鎖が止まらなかったのである。俺が外に出るまで、おじいさんんが『ほー。君あれか、あの作品を書いた人かーー話は聞いてたけど。』みたいなことがずっと続いていたというか、さっきのファンなんです。と言っていたガールもなんか名前を認知されているちょい有名人だったりした。

 

ネタバレをすると。その本屋は、歌集・詩集を中心に集めている本屋さんでオーナーさんに聞けばこのような本を買う場所がどんどんなくなっているからそれをどうにか作りたかったのだそうだ。さっきの有名人たちは、現代詩集という刊行の本だったりに作品が載ったりする人たちで、そんな人達が本屋さんを中心に関係が広がる場になっていたみたいだった。

 

当然、そんな本屋に置かれている。『一篇の詩に対する60日間の考察の記録』なんてへんてこな企画本が只者なわけがなく。そもそも余白という詩はこの企画のために谷川俊太郎さんが書き下ろしたもので、考察をする6人もオーナー曰く、“今をときめく詩人”なのだそうだ。僕は全く知らない人だったが。いまをときめいていたのだ。ちょうど、ばらかもんという書道のアニメを見た時も思ったけど。知らない世界で、知らない方法で、知らない人たちによって、ときめいていたわけだ。

 

 

“未知の扉を開けてしまった感”がたまらなかった

 

 

 

普通の本も、江國香織村上春樹となんだかエッセイよりで。チョイスが偏ってたのも好きだったし。またいこうと思う。本も早めに読もう。

 

 

以上。

※最近は、Young never beachとsuchmosというバンドが僕の脳内でときめいています。是非に。

 

 

白鵬の変化と2008年全英決勝

こんばんは。ESを書きたいのにナダルVSフェデラーのことが書きたくて仕方なくなってしまった人です。こんばんは。やまゆです。

 

 

まぁきっかけは白鵬が変化で優勝しましたってニュースですよね。はい。僕は、相撲はわかりませんので正々堂々がいかなる文脈なのかわかりません。ただ、白鵬の勝ちたかったというコメントで泣いたところにとても共感したというか。ぶっちゃけると、周り黙ってろコラ。真剣とは、真の剣で抜きあうことであり、試合とは死をかけた戦いなのだみたいな事を言いたくなるわけであります。(勝てばいい思考はサッカーで身についたなって思う。マリーシアという言葉が正義になるスポーツだから)

 

ただ、王道が存在して欲しい。という気持ちは僕もとても良く分かります。こんな話が出てきた時、いつも2008年の全英決勝フェデラーVSナダルの試合を思い出します。僕は、サッカーをやっていたのですが、テニス家族だったのでなんか知らんけど全英だけは見る機会がずっとあったわけです。だから、テニスやったこと無いし超素人です。ただ、この2008年の試合は素人目でも凄い試合だった。というか物語ができすぎていた。

 

 

錦織が有名になりビッグ4の名前を知られるようになりましたが僕が高校の時は、テニス界はフェデラーナダルの二強時代でした。2008年全英決勝は、フェデラーが勝ちまくっていたところにナダルクレーコートで勝ち始め、最後の砦として球のスピードが一番上がると言われている芝のコートのグランドスラムである全英でフェデラーが初めて負ける試合でした。

 

いまのテニスシーンであっても王道といえばフェデラーという回答になると思います。まずプレーが全てにおいて安定している。隙がない。動揺もない。勝負どころが分かっている。もう、何においても一流過ぎて、更に言動も紳士すぎて。王道中の王道。とにかく、何も言うことがない選手に見えました。

引き換え、ナダルは左利き、独特な回転の弾道、尋常離れしていたフットワーク、野獣のような顔、ルールの逸脱を厭わないマイペース、神経質な性格ともうなんて象徴的な選手なんだと思っていました。王を倒すためにステータスを1つのところに集中させたプレイヤーって。ゲームか。漫画かよ。って思ってたんです。

 

 

ただ、これでもフェデラーは倒せなかった。この、異次元のプレイヤーでもフェデラーは負けなかったんです。2006年、2007年フェデラーは全英でナダルに負けませんでした。

それだけ本当にフェデラーが強かった。どれだけ、すごいフットワークを見せた1ポイントであっても次のサービスでエースを取る。どれだけ緊張するシーンでも冷静にドロップショットを決める。そして、かきあげる髪の毛。光る全英連覇の数字(当時、フェデラーのウェアとかに連覇してる数字が入ってた)みたいな。本当に圧倒的だった。

 

ただ、ナダルがそこで絶望して何もしなければ2008年の優勝は起こらなかった。ナダルは諦めなかった。弱い部分が、平均値が低ければ絶対に勝てないと、自分のプレーの弱みを潰し始めます。そのおかげで、2008年までの3年間で圧倒的に弱かったスライスとネットプレーがうまくなります。素人目でも、感動的なぐらいにうまくなる。

そして、2008年の決勝では、フルセットまで行く中で4セット目までほぼ全てサービスをバック方向に打ちます。本当に9割ぐらいがバック方向だったと思う。これは、本当に異常な事で、フェデラーが完璧であるという信頼があって、1%でも悪いリターンが返ってくるためにはフォアーではなくバックに打ち続けるしか無いという判断でした。

そのバックを攻め続ける事が5セット目になって花開き。フォアー方向のサービスを混ぜ始めることで主導権を握り、勝ちました。

 

もう最後の方とか何が起こってるかわからないほどの歓声が起こって。でも、サービスの瞬間は一気に2人だけの世界で。あれ生で見てた人は一生話続けるだろうなって思う。とても異常な空間だった。

 

 

で、結局何が言いたいねんって話なんですけど。王道であるべきという主張は、あっていいと思う。圧倒的壁になって、他の人達がモチベートされる圧倒的な、もう正義か悪かわからないような王道。

でも、やっぱり勝つためにどんなことでもする。誰が言おうと構わない。って姿勢もやっぱりスポーツの上で必要だと思うのです。そうでなければ。競技自体が極まらないと思うのです。王道だけでは。王道対王道では、きっとどん詰まりです。どんな邪道をも倒せる事だけが王道の王道たりうる理由だと思うので。相撲の文脈でどうなのか僕にはわかりませんが。邪道に負ける王道を求める人は、居ないはず。ならば、邪道で勝つ者をちゃんと賞賛するべきだと思います。いつか、それを越える王道を持つ人がこの競技に現れることを信じて。

 

以上。です。

ちなみに僕は、ナダルが一番好きです。プレースタイルからピークを保てる期間が短いと分かっていても自分の強みだけを信じてフェデラーに立ち向かっていくあの姿を僕は一生忘れられないと思います。

 

 

 

 

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展・藤村龍至編

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展藤村龍至

目次

  1. 郊外という論点

郊外を生きる:三浦展×馬場正尊×水無田気流×清水健

論点としての郊外地図:門脇耕三

郊外論/故郷論-虚構の時代の後に:浜崎洋介

『郊外の危機』とコンビニの可能性:新雅史

  1. 郊外再生の現在地

ケアの空間を地域のコアに:上野千鶴子インタビュー

建物・人・お金を再起動させる仕事:鈴木雅之

多摩ニュータウン再生:松本真澄

なぜここだけが生き生きとしているのか:田中元子

  1. 郊外から日本の未来へ

朽ちる郊外の再生戦略:根本祐二インタビュー

郊外住宅地再生への挑戦:東浦亮典

コミュニティアーキテクトを目指して:水谷元

くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?:柴田健

 

三浦展さんと藤村龍至さんが編集をしているが、上野千鶴子さんなど社会学系や建築系の人たちの対談形式の文章と50pぐらいの単著の文章が並ぶ。単一視点じゃなく、複数の視点から同じテーマである郊外の問題や最近の動きについて社会学、建築、計画系、公共インフラ系から語られている。同じ郊外というテーマだから、お互いの意見が相反する場合もあったり重複したりして文章ごとが繋がって頭に入ってくる。ただ、どの人たちにとってもこの郊外という場所での動きが、面白いテーマであることが伝わってくる。基本的な背景としては、均質な、快適な、選択可能な場所としての夢の終着点としての郊外が、社会学で言う夢の時代から虚構の時代に移り変わり、その虚構の均質性が変質して漂白されていた問題点が浮き彫りになっていく。現在は、それだけではなく高齢化や都市回帰による空き家問題など郊外をどのように“畳む”か、“再起動”するか、“持続可能”にするか?という議論がなされている。

 

全ての議論を網羅して書くのは難しいので、とりあえず気になったものをピックアップする。まず、1の”郊外を生きる”では、そもそも郊外は、安全であるのか?子育てに適した場所なのか?という速水さんの指摘をそれぞれの対談者がその切り口について話をする。郊外は、ヨーロッパから始まり子育ての際の都市的な悪からの回避(家族主義)と自然を求めて郊外へ行くのが始まりである。この都市的な悪が誇張されているのではないか?そもそも、現在は子育てに関するリソースは都市のほうが多くあり、そのようなリソースへのアクセスも都市に住むほうが簡単である。また、交通事故も郊外と都市統計的に変わらない事が示される。その中で、では、郊外はなくなっていいのか?という話になり、最終的に郊外の都市化について議論があり対談は終わっていく。ここでの“都市化”とは“都会化”と異なる。“都会化”とは、消費の場としての都市のようになることを指し、ショッピングモール等は郊外の都会化と言える。それと逆に”都市化”とは、生産の場としての都市を指しており、郊外で生産を行う。つまり、郊外で住んでおり、郊外で働く職住近接の形をもっと作っていくべきであるという話である。また、郊外は私有意識が強すぎる。ことも指摘されていた。そのため、公共を作り出すことが難しい。ただ、均質的な、選択した、与えられた、住むだけの場所(私有空間)ではなく公共性をもった場所としてどのように再生産していくか?という事も今後考えていく必要がある。(これは、2の”なぜここだけいきいきしているのか?”で書かれる”ユーカリが丘ニュータウン”が一つの解をだといえる。)

 

次に、郊外の絶望をえぐるように書かれた章が、”郊外論/故郷論-虚構の時代の後に”である。まず、ニュータウンとは上述した夢の時代の産物である虚構の街である。そこには、選択可能で偶有性の高い、ここ以外でもありえた感の高い街であり、それを自分の故郷とするために必死に演技をする街が出現する。建物は均質であり、住む人も居住時は同じような年収で同じようなサラリーマンの父と主婦の母をもつ家庭である。(しかし、この”同じような境遇の人達”はどんどん変わっていくことが3の” くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?”で示される。) そこには、”地域の人”というものはなく、いたとしてもその地域の人が居場所を提供することはない。子供にとったら、家族軸と学校軸しか持たない街となる。(これは、江 弘毅のいう街的な場とは対照的な場である)。そのような場で、家庭崩壊がおき学校でもダメとなると子供は居場所をなくすことになる(宮台真司は、その先に第四の空間という都市的現実に子どもたちが解き放たれたとしているらしい(引用元:まぼろしの郊外,セクシュアリティの社会外))。この家庭に閉じ込められた中での学校軸がなくなり行き場を失った最終的な極点として、酒鬼薔薇聖斗が誕生したとしている。この虚構の街は外部が入り込む余地を残さず、自身が外部を自認できないことで内閉してしまう。その外部性を回復されるためには、上述した偶有性が高い場ではなく、この場所でなければならなかった。という外部からの要請(場所や人の歴史)が必要であり、与えられた何かに自分が溶け合おうとする経験が必要だとする。

最終的に、この著者は郊外の均質性や漂白された場が汚くなっている事を見てそこに”死”があることを見出す。ここから、郊外が”歴史”を持つ場となりうるとし、故郷になりうる場所だとして文章を終える。

ここからは、僕の個人的な話だけど僕は田舎の郊外というべき場所に育った。第四の空間というものは存在しなかったし、地域の人というものを自覚したことは無い。(友達のお母さんぐらいだ)しかし、僕には学校軸の充実があり、家族軸の充実も幸いにもあったため何も窮屈は感じなかった。しかし、中学校時代には謎の中高生のヤンキー集団があり、夜はバイクの音がなっていたりした。あれは、たぶんそこ学校と家族軸を失った。第四の空間を田舎なりに作ろうとしていた子供達だったんだろうなと、今になって思う。

 

最後に、上野さんと藤村さんの対談である。上野さんはいつもどのようにソフトライディングするか?という問いをもっている。(以前読んだ、古市さんとの対談本である”上野先生勝手に死なれちゃ困ります。僕らの介護不安に答ください”にもそのようなスタンスだった。)。郊外のたたみ方について藤村さんは建築から上野さんは社会学的にその可能性を話し、建築の人たちは建物から人がどれほど移動するかを考慮していない、もしくは距離だけで考えている。と批判し、社会学的に郊外の人たちが思ったよりも移動していることからもっと大きな規模でまたは、距離だけでなくもっと違う心理的な問題を把握すべきだと話をする。その前提の中で、心理的なハードルをいかに下げてアソシエーションによって結ばれる空間を作るか?という問いに移り。事例を踏まえて話をする。上野さんの結論としては、ケアをそのコミュニティに置くことで人が必ず出入りする空間を作ることができ、その関係を利用して新しい仕掛けを作っていけばいいのではないか?としている。ここでのケアとは、学童や介護などを指し、居酒屋状態である加入脱退が自由、強制力がない、包括的コミットを要求しなアソシエーションのある場を創造すべきだとしている。

 

このような感じ。とりあえず、地方分権が進んできており、独立自立したコミュニティというのも成功しつつある。僕としては、郊外を都会化ではなく都市化するという流れに期待したい。その都市化は、地域のための生産であってもいいし、それ以外であってもいい。とにかく、距離が近く、働きながら精神的に住む街に馴染めるような場が増えるようになって行ってほしい。これは、僕が石橋の近くで住んでた事がとても影響しているなと読みながら思った。

 

メモ

地方は、ハードの導入ハードルが小さい

→知識や人材、アクティビティがあっても土地が高いからハードが入りにくい。

地域のインフラを民間に預ける。その民間は、他の地方自治体にもサービスを提供している。

 

名言

学童とは、いわば子供の居酒屋,上野千鶴子

出典している本、論文

朽ちるインフラ

家族をいれる ハコ家族を超えるハコ

東京は郊外から消えてく!

次世代のアメリカの都市づくり

ケータイ小説的。

公共性の喪失

まぼろしの郊外,宮台真司

透明な存在の不透明な悪意,宮台真司

つながった本(未読)

つながった本(既読)

飲み食い世界一の大阪 ~そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの~

→居酒屋、お好み焼き屋さんは街の先輩に会える場所。地域にあるもう一つの居場所

 

検索したくなるワード

夢のみずうみ村

武蔵野市 テンミリオンハウス

神戸市 真野地区

横浜市 NPO支援

アートコミュニティ 美浜

ユーカリが丘

コミュニティリビング;IOG

定年ゴジラ,重松清