人生の山中にて

なんかあったら、書く

バイオ7の恐怖という魅力

 

ゲームの話をするとき、就活で任天堂の説明会に行った時の君島社長の言葉を思い出す。


『ゲームは飽きられる。これは宿命なのです。だから、新しい楽しさを常に追求しなければならない。』


シリーズ物のゲームは、この宿命を否応なく背負わされる。

ゼルダの伝説シリーズを見ればわかる。
ファミコンスーファミ、GBの2Dゼルダ→時オカの3D化→Willからの剣を振るなどの加速度センサギミック→BoWのオープンワールド

 

同じシステムの中での新しいギミック(ムジュラの3日間システム、バイオ3のネメシスとか)では、ゲーマーの飽きは止められない。

 

ゲームシステムの改変が必ず必要になる。(その点、ポケモンって同じシステムで新しい客に常に供給する戦略なのかも)


バイオハザードも同じ宿命を背負っている。

第1段階:バイオ0-3、コードベロニカ→第2段階:バイオ4-6、リベレーションズ→第3段階:バイオ7

と、大きくシステムが変わる。(アウトブレイクは、1.2段階の間ぐらい)
いつも評価されるのはシステム改変後最初の作品。つまり、バイオ1、バイオ4、バイオ7である。


特に、バイオ4のシステムの改変はカプコンにとってかなりでかい話だったというのを当時のファミ通で読んだ。
結果はゲーマーから大絶賛だったのだけど、そのせいでバイオ5、6については4を越えることをかなり苦心して作られたそうだ。

第2段階では、第1段階からプレイヤーの視点が大きく変わり、キャラクター追従の第三者視点TPS(操作するキャラクターの後ろをぴったりくっついて歩く視点)になった。また、射撃時は、一人称のFPS視点になった事で、視点切り替えが必要となり『全体を把握する』『狙いを定める』という事の重要度がゲーム内で増した。


その結果、アクション性が上がり『マップや、敵全体を把握し、効率よく動く』という事を楽しむゲームになったと思う。

その象徴として、第2段階には時間内に多くの敵を倒して点数を競うオプションモード(マーセナリーモード)が存在し、今でもこれを競うプレイヤーがいる。

そして、もう1つ大きな違いは主人公はミッションを持って現地に乗り込む。それまでのシリーズは全て脱出が目的で、逃げている間に、事件の全容が明かされていたのに対して、救出とか原因の究明とか主人公がミッションをもっている。

そのためなのか、第2段階はストーリーがかなり練られている。というか全体のストーリーを進行させようとする。コナンでいう黒の組織が出てくる回のように、第1段階でバラバラに散りばめたバイオ全体のストーリーがかなり進行する。

 

第2段階は、こんな特徴があるので、バイオのストーリー全体像が知りたいバイオのコアファンやFPSゲームが好きなファンには待ち焦がれる作品となったが、5.6と作品が出る中で、ホラーゲームとしてのバイオが好きな人や、新しいゲームを待っている人達にはだんだん飽きられていったように思う。(山中は、5.6やってないのでかなり偉そうな物言いだけど。)

 

そんな中、バイオ7である。(やっと本題にたどり着いた。。)

はじめに。
バイオ7めちゃくちゃ好きです。システムと数人の敵キャラに労力を全振りしてる感じで荒いし、ボリュームもそんなないけれど、完全に心持ってかれました。別にそんなにゲームの数やってないんだけどね俺自体。

何が面白いって、怖い!とにかく怖さを追求している。ここに関しては、ホラーゲーム結構やってる人達にとってはパクリが多いとか色々言われているみたいだけど、PRで散々怖さを煽ったのに、期待以上の怖さだと思う。

さらに、その怖さがシリーズ第一段階の怖さと似てるところが、『あ、これはバイオハザードだ。』と思わせる。

シリーズ第1段階は、固定視点と言って監視カメラから覗いたような視点でキャラクターを動かす。なので、視点の切り替え先に敵がいる事が切り替わるまでわからない。この視点が切り替わる通路の角を曲がる怖さ、ドアを開ける怖さがバイオ1の怖さの1つだった。

また、第2段階では、弾薬や回復薬だどの資源の枯渇が起こることはほとんどなかったが第1段階では、資源が無くなって詰む事があった。(実際詰んだこともある)さらに、アイテム欄も限られており常に何を持っていくか?という判断を迫られる。

第1段階は、これらの要素でホラーゲーム・サバイバル・脱出というキーワードが合うゲームだった。


バイオ7はここに回帰する。しかし、第1段階と違う事が2つある。


1つ目は、グラフィックと音の質の向上である。特に、音が本当に怖い。イアホンをずっとしてやっていたけど、そもそもの生活音(ハエの音、風の音)、ドアの開け閉めの音、敵キャラの声が、操作キャラクターからどの方向、距離感なのかわかるレベルで聞こえる。

だから、敵キャラと遭遇しないために音をかなり注意して聞くことになるのだけど、集中して聞けば聞くほどランダムで入る生活音でびびりまくる。


この音の質の向上で、何かがいる事が分かってるが見えない角を曲がらなければならないシリーズ第1段階の怖さを濃縮した感じになって襲いかかってくる。

グラフィックの進化はFPS視点も相乗効果となり、匂いがして来るほどのリアルさで近づいてく。


2つ目は視点である。バイオ7は、FPS視点。つまり、第一人称視点でキャラを操作することになる。この恐怖は、第1段階と比べ物にならない。

そもそものキャラクターへの没入感が固定視点より段違いだし、敵キャラとの距離感が全然違う。敵からの攻撃は『ダメージを受ける事』と、割り切れない怖さがある。

また、FPSは視点のせいで、何度も何度も後ろを振り返ることになる。ゲームの中にもかかわらず。
第2段階でも、振り返ることはあったが、あくまで効率よく動くための全体把握のために振り返っていた。
しかし、7は『怖いから振り返ってしまう』のである。夜の道を何度も振り返るような、感覚で振り返る。しかも、振り返るのが遅すぎてもう死ぬほど怖い。

こんな、怖いものがどこからくるかわからない状態で自身の動かすキャラクターの影や手が一定のタイミングで突然映り込む。しかも、高いグラフィックで。


最終的に、何も動きたくなくなる。まで、いってしまう。


基本的にゲームは、テレビゲームに限らず、クリアへの障害に対して効率的な解決策を見つけてそれを試してクリアしていく。

しかし、バイオ7の場合、恐怖を克服することが効率的な解決策になる。これは人間の性質まで遡って解決するものだ。


だから、初見のプレーではとんでもなく下手くそになる。恐怖のせいで。これは、第2段階のバイオシリーズで操作に慣れたプレイヤーにとっても同じである。恐怖という要素は、プレイヤースキル関係なく、平等にプレイヤーに与えられる障害になる。これはホラーゲームならではのものだ。


僕は、この恐怖による障害によって、バイオ7は完全にゲームとしての面白さが第2段階を凌駕してると思っていて、もうシステムが変わったとかいう問題じゃなく、違う問題解決をしないといけないゲームになってしまった。いかに、恐怖を楽しみながらプレーに集中するかという要素がすごく強くなったのである。


さらに言えば、PSVRでプレーしたらその恐怖は10倍であるとレビューがあり、従来のプレースキルどころではない。


バイオシリーズはメインシリーズ3作ごとにシステムが変わる。つまり、バイオ8はこのシステムの中でさらに恐怖を充実させてくるわけである。


どんな結果になるにせよ楽しみでならない。VRやMRは個人の能力、特に運動能力に依存するゲームを作り出しているがバイオ7の恐怖による障害は、個人の性格や感受性に依存するゲームなのかもしれない。

これまで、プレイヤーに平等に与えられていたゲームが、プレイヤーの性格や運動能力に依存してくるのはちょっと嫌な部分もあるけれど。新しいゲームの形として面白いものがどんどん出てきてほしいなと。バイオ7をやって思った次第です。

以上

 

ポジティブよりもナルシストを目指すべき

おはようございます。おはようございます。山中です。
研修が、日によっては、茶番すぎるだろ。ふざけんな。だったり、素晴らしいなこの講師だったりな生活です。
 
2週間が過ぎましたが、研修には付き物の『新社会人に向けたアドバイス』みたいなものが最後にくっついている講義をめちゃ受けてます。その中でも、「人間関係・信頼・信用」「ポジティブシンキング」の二つの頻出度合いがかなり高いです。いや、大事だと思います。はい。信頼・信用に関しては本当に激しく同意であります。

 

 

「ここに一杯の水がある」理論

 
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ここに、Autodrawで書いた一杯の水がある。Autodrawで書くことに特に意味はないのだが、簡単にかけて最高だ。
ポジティブやネガティブはこの中で、入っている水に注目するか、ない部分に注目するかということで例えられる。「水が4割もある」と考えることがポジティブシンキングだ。つまり、あるものが与えられてその良い側面を見ることをポジティブという。
 
 

しかし、飲める水は4割で変わることはない。飢え死にしようがさらに分け与える人がいようが4割の水を飲む必要がある。実際に、飢え死にするやつもいる。

 

 

 
一時的にはいいかもしれない。自分が気合で乗り切れる期間なら。しかし、継続したら確実に飢え死にしてしまう。ネガティブシンキングのほうが、6割もないという問題を直視している分、「水が少ない」という問題の解決には役立つかもしれない、まである。
 
また、ポジティブであれネガティブであれ与えられた「水の量」という問題から離れることはまずない。これは、汎用AI(人間みたいに判断できるAI)の課題であるフレーミング問題と同じ問題だ。
 
フレーミング問題とは、ある枠の中で最適化することはできるが、その外のことについては考えることが難しいという問題で。今回の場合、「水の量で評価する」というフレームから抜けることがポジティブ-ネガティブだけでは抜けることができない。
 
 
 
 
ナルシストの考えそうなこと
 
 
ナルシストは、この枠を超えることができる。一杯の水を見て、「これぐらいの水が入ったグラスが一番美しい」と評価することができる。自分の価値観を持ち、その価値を信頼できること。それがナルシスト。
 
 
 
「いやいや、そんなことができれば、苦労はない。」「わかっているわそんなこと」という話なのだが。でも、目指すべきは与えられた基準だけで勝負するポジティブな人間ではなく、ナルシストであると思う。心の平安を保つ方法としてポジティブは一時的にはとても有効な手段だが、常に一時しのぎで進展がない。というか、ポジティブでいることで問題を先延ばしにしている場合も多々ある。
 
 
 
ナルシストは絶対的に謙虚である
 
 
その点、ナルシストは自身の信じる基準の中では絶対に謙虚である。問題を先延ばしにすることはできない。
なぜなら、自分の基準での「ダサい自分」を許すことができないから。許してしまえば、ナルシストではなくなってしまう。水の例でいうと、水の量では勝負しないが、グラスの美しさに関して執着する。その努力はポジティブシンキングで、良い側面を見るだけよりも明らかに大きい。
 
自分本位だとか言われるナルシストだけど、自分の定める本質に対して絶対的に謙虚だ。
 
 
 
ポジティブよりもナルシスト
 
左利きのエレンという漫画(すごいマンガです。とりあえず)で、仕事のできる人種は「サディスト」「ナルシスト」「自身の特性を理解し適切な場で自分を動かせる人」「アーティスト」の4つだと上司が言うシーンがある。どれも、自身の基準を持ちものごとに接することができる人たちなのではないだろうか。ポジティブもネガティブも精神安定剤としては重要だ。でも、表面をそれでかわしながら、裏で、孤独に、違う基準を作っていきたいなと思う。最終的に自分を支えるだろうから。
 
 
以上でした。左利きのエレン電子書籍しかないけど。めちゃいいですよ。全部買ってないけど。
では、確定拠出年金のお勉強します

二年前に亡くしたはずの友達について

 

はろー。山中です。来年度から大阪で働きます。仲良くしてね。修士論文を書き終わり、副専攻の単位も全て取り終わったので計画通り卒業とあいなる予定でございます。はい。来年度からもよろしくお願いいたします。

今は、寝る、走る、ゲームする、本を読むだけの要素で生活をしています。

 

今回は、二年前に亡くした友達の話をしたいと思います。かなり個人的なものです。

 

僕はまだちゃんと彼女の喪失を悲しめていないという焦りについての話であります。何の教訓もありません。が、僕と同じようなしんどさをもった人もいるのではないか?ぐらいに思って書いております。

 

 

二年前、突然亡くした

 

亡くしました。サークルの同期でした。知っている人もいると思うけど、ちろとい名前の、名前は違うのか。とにかく、ちろの話です。

 

亡くした日、東京のサークルの同期から電話があり、男性の同期に電話をしてほしいと言われました。いやー、とんでもない体験でした。人が亡くなったことを何度も伝えるのってとんでもなかった。当時は、卒論も佳境の佳境でお葬式とお通夜どちらも行ったことを指導教官に諌められたりしました。(こちとら、友達亡くしとんじゃと思っていた。)

とにかく、不意打ちで何も考えられないまま事態は進み、さらに言えば卒論が忙しすぎてよくわからないテンションでその時期を乗り切り、気づいたときには普通の生活が滞りなく進んでました。

 

 

まぁそんなこんなで、ふと気づいたら、僕はちろがなくなったことを悲しむことがないまま生活を送っており、何も泣けないまま、泣くことだけが悲しみを体現するものではないことはわかっているのだが、何も悲しまないまま、普通に生活を送ってたわけです。

 

これは結構深刻だと思いました。めちゃくちゃ焦りました。

僕は全く悲しんでいませんでした。今もあまり悲しめていません。そのせいで、彼女が僕にとって大切な人ではなかったのではないか?みたいなよくわからない焦りをもっていたりしました。

それを否定するため、悲しみの不在を埋めるために、爆心地に行けば分かるはずだ。と、この二年間、3回ご家族に会いに行ったりもしてました。でも、いまいちしっくりきていない。

 

いやいや、人生は初めてか?力抜けよ。状態なのですが。悲しみがない事=大切ではないのではないか?という式が成立するのはなんとなく伝わるものなのではないかと思う。

 

 

 

少なくともここにあったと疑いもなく思える心持ち

 

江國香織さんの『号泣する準備はできていた』のあとがきがとても好きで、僕は何度も読んでいるわけだが。その中にこのような文章がある。

 

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。
そして、それは確かにそこにあったのだと思う。
かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短篇集になっているといいです。

江國香織 号泣する準備はできていた あとがき抜粋

 

 

この文章で書かれていることを結構信頼していて、悲しみは決定的な喪失からもたらされるものなのだと思う。

当然、喪失していないのに悲しめていない自分は、この文章を思い出し、亡くした友達が自分にとって、「少なくとも確かにここにあった」と思うほどの人ではなかったのではないかと解釈しはじめていた。解釈できるなと思って結構長い間苦しんでいた。

 

解釈をして、それは絶対にないと思って、思いたくて、過去の交流とか引っ張り出しながら、彼女はここにいた。僕は彼女の一部を所有していた。と言い聞かせながらしんどいなー、なんでこんな言い聞かさなあかんねんやろ―と思ってた。

うーん結構しんどかった。(関係ないけど、お盆ってしんどい日なのねってこの二年で知った。)

 

 

 

そんななんやかんやしながら、去年、転機が来た。鷲田さんの本やら友達と話をしていて、僕は、まだちろを決定的に喪失していないのだと。悲しみの方じゃなくて、喪失の方をちゃんとしてないんだと気づいた。

 

 

不在感の不在

 

そう。僕は、まだちろのことを決定的に喪失していない。例えて言うならば、彼女はまだスウェーデンから帰ってきていないぐらいなのだ。

 

僕は、彼女がここにいたと疑いようもなく思えることができる。でも、それは過去形で「あの時、ここにいたと疑いようもなく思えていた」のだ、よく考えれば彼女との交流は亡くなる半年前から途切れていた。そう考えると緩やかに喪失しかけていたのかもしれない。でも、絶対にまた、なんとなしに会うだろうし決定的に重要な役割を自分の人生の中でしてくれる存在だろうと思っていた。決定的なお別れでは絶対になかった。それは確信を持って言える。ただ、繋がりのグラデーションが薄い時期だっただけなのだ。そして、そのまま薄いまま、生存と不在をシームレス越えてしまったしまったのだ。

つまり、「彼女が不在になったという感覚が今僕に不在」のまま本当にこの世から不在になってしまったのだ。僕に決定的な不在感を与えぬままに。

亡くなった人を穏やかに思い出すためには、不在になったことから接続するしか無い。「いた」ことは、「今、いない」ことを通らずには話が通らない。そして、「今、いないこと」を感じるためには「いるはずの場所にいないこと」が必要であり、僕の場合、サークルの中でちろがいないことを語ることでしか決定的な喪失感の不在は埋めないのではないかと思う。

 

 

ちろの話をしよう

どうか皆さん、ちろの話をしよう。少なくとも僕には、みなさんと話さないとだめな理由がある。だいたい社会人になって多忙ではあるがちろの話をしよう。

それもネットとかではなく直接。見えないところで。見えるところで文章を書いている僕が言うのもなんだろうけど。よくわからないけれど。彼女のご両親から知った新しいちろの話もあるし。

 

たどり着いた文脈やらは、違うだろうけれど、崎浜ともそうゆう機会を作らないとだめだとちろの家に一緒に行った時に話をしたし。たぶん、ちろを知る人はだいたいそう思っているだろうけど。

いつになるかわからないけれど。場所は、ラーメン屋さんになるとおもうけれど。

 

 

 

以上であります。

書いてるときに盛大に泣きました。その為、この文章は盛大に矛盾をはらんでるますwまぁいいや。とても、すっきりしました。

 

 

 

2016年に聞き始めたアーティストの勝手なまとめ

やまゆーです。

修論ほっといてスリランカに行きます。

行きます。

最近気づきました。youtubeをガンガン職務中に聞ける環境でないと、ここ三年間のような、パソコンついてたらずっと音楽聞いてるみたいなこと今後は起こらないわけです。

なんてこった。なわけです。

 

そう考えると、この三年、人生の中でも特殊な、新しい音楽を聞きまくる環境かつ時期にあったわけです。もう俺の人生の中で知ってるアーティスト貯金もしかしてこの瞬間が最大なのではないだろうか。別に、多く知ってるからどうなんやみたいな話やけど。

というわけで、なんとなく、今年聞き始めたアーティストやら曲やらを、まとめておきたいなって思いました。ちなみに、僕全く楽器できませんし、専門的な事わからないんで。なんとなくすげぇ!!ぐらいの感じです。物好きの人は、最近この曲好きやねんみたいなのあったら教えてください。修論スリランカのお供にします。よし。行くぞーーー。

 

なんか長くなりそうなんで意味のない目次作ります。

 

目次

  1. 2016年、もっとも聞いたアーティストTOP3(Never young beach、Suchmos、Yogee new waves)
  2. とりあえず、この曲すごくない?篇(クラムボン、Ykiki Beat、フレンズ、天才バンド、サニーデイ・サービスBill Evans)
  3. なんか、最近、女性ボーカルバンドおおくないっすか?篇(FINLANDS、Hump Back、Homecomings、The Wisely Brothers)

1.2016年、もっとも聞いたアーティストTOP3

2016年知ったアーティストの中で、最も聞いたアーティスト。間違いなく、Never young beach、Suchmos、Yogee New waveだと思います。特に、Never young beachは、最初に聞いたときの衝撃が未だに抜けない。なんてこった。

 

Never young beach

この『明るい未来』という曲で、何度、落ちた心を復活させたことか。とても楽観的で、「これだからゆとり世代は」というような感じではあるのだけど。いや、楽観的でなくてどうするんだよ。突き抜けて幸せな歌を歌ってやるよ。「いつでも微笑みよ。そんな歌が昔あったような。今こそ、この歌を歌うべきじゃないのか?」“この歌”とは、間違いなくこの『明るい未来』だ!!!歌ってやるさ。ゆとりバンザイ!!
最近だと、『お別れの歌』って曲のMVの小松菜奈が可愛すぎる。ずるいみたいな事でちょっと話題になってましたね。

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小松菜奈が可愛すぎるMV

never young beach - お別れの歌 (official video) - YouTube

 

Suchmos

 もう、とにかく、かっこいい。取り敢えずベースが凄い好き。変態ボーカルのオーラが大物感を醸し出しててて、大きなフェスのトリにもうすぐ出てくるんだろうと思う。サカナクションでクラブミュージックなんてジャンルがあるんやと知って、このSuchmosで完全にこのゆったりとしたノリにハマってしまっている。ライブ行きたい。

 

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 Yogee new waves

 Ceroも最近聞き始めました。Yogee new wavesは、Stars onというフェスで聞きました。やっぱり、まとめるとゆるい感じに吸い寄せられているのかもしれない。社会に入ったらもっと、パリッとした曲を聞くようになるのかもなー。。ライブで聞くと、おしゃれというよりもandymoriのような感情むき出しのパフォーマンスで、完全にライブバンドです。また聞きたい。

 

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2.とりあえず、この曲すごくない?篇

ぼく、音楽してないので、曲聞いても何が凄いのかわからないですよ。でも、なんかすごくて声あげちゃったり、なんとなくエンドレスリピートしちゃうわけですよ。研究室で。そんな曲とアーティストでございます。誰か語り明かしてくれ。この曲たちの凄さを。俺はすごいしか言えんのです。

 

clammbon(クラムボン)/yet

最初に聞いた時、もう3回ぐらい、『えっ?』って言ったと思います1週間前の事です。なんやろ、こうゆう流れなんやろなーっていうのって曲を聞いてたら感じるじゃないですか。それを3回ぐらい虚をつかれるというか。どこいっちゃうの?みたいなことになって慣れてきたときのサビとボーカルの綺麗な声があー泣いちゃうーってなります。もう最初にどこで驚いたか忘れてしまったけど。なんか、とてつもなく驚いたわけであります。クラムボンもっと聞きたいです。『サラウンド』しか知らなかったので。

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Clammbon - サラウンド (Surround) [SPACEZERO] - YouTube

 

Ykiki Beat/Forever

かっこいい。The finを先輩に教えてもらって聞いた時の感じを凄い思い出した。こうゆうのUKロックって言うらしい。UKってビートルズしか知らん。なんやねん。The finのときも思ったけど。本当にこの人日本人なのだろうか・・・・?

 

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The finのリンクも載せときます。

The fin.- Night Time - YouTube

 

 

フレンズ/夜にダン

とりあえず、おかもとえみが可愛い。っていうことはタイプの差があるのだろうけど。結構前に聞いてyoutubeのオススメに出るようになって最近かなりの頻度で聞きたくなっている。今一番CDが欲しい。ずっと聞いてても、ただ、ゆらゆらしてられる。これも幸せになる系。僕にはやはり癒やしが足りないのかもしれない。猫飼いたい。

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天才バンド/君が誰かの彼女になりくさっても 

これ知ったのも、今年なのであります。Back Numberばりの悲恋の歌ですな。でも、back numberよりも女々しく聞こえないのは、ボーカルの奇妙礼太郎さんがどう考えてもモテモテにしか見えないからなのかもしれない。ちなみに、こうゆう曲かーと思ってライブに行ったら痛い目にあいます。ライブだと、ひたすらWe are 天才バンド!!!って言いまくって超かっこよくベースとギター弾き鳴らすおじさんたちです。超かっこよかったけど。

 

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 ↓完全に観客を置き去りにしていってしまう天才バンドの例

天才バンド - DANCE MUSIC FOR ME!! @ 夏の魔物2015 - YouTube

 

サニーデイ・サービス/セツナ

とにかく、MVが狂気。その中をエンドレスで流れる。シンプルなメロディー。がさらに狂気さを増していく。狂気。サニーデイ・サービス結構古い人達みたいだけど初めて聞いた。『青春狂騒曲』って曲も超おしゃれ

 

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(PV)サニーデイ・サービス - 青春狂走曲 - YouTube

 
 
Bill Evans/ walts for Debby

ジャズを知っている人は、『は?何言ってるのこいつ?』って感じなのでしょう。超名曲らしいです。全然知らんけど。僕、『Blue Giant』というジャズの漫画を読んで、ミーハーを発揮してジャズに手を出したのですが、ジャズの何が凄いって、もう本当にひとつの楽器から出てんのか?なんて音の幅なんだ?ぐらいに楽器の音が聞こえるんですよ。ガンガン鳴らしてる要素の1つだったベースやらドラムやらが、もう凄まじく細かく聞こえるんですジャズって。完全にやられてしまってこのBill Evansって人の二枚組アルバム買いましたよAmazonで。はい。ちなみに、Fly with the windって曲も超好きです。これもジャズ知ってる人からしたら何いってんのお前?級の曲みたいですけど。誰か俺にジャズを教えてくれ。もっと深みにハマりたい。

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McCoy Tyner - Fly With the Wind - [Fly With the Wind] 1976 - YouTube

 

 

 

3.なんか、最近、女性ボーカルバンドおおくないっすか?篇

いや、多すぎますよね。絶対。それとも、俺があんまり知らんかっただけなんやろうか。それとも、俺が女性のボーカルバンドを引き寄せているのだろうか。ちなみに、チャットモンチーは、2人になってからの方が好きです。SHISHAMOは性に合いません。

 

FINLANDS/ウィークエンド

いや、もう絶対売れてるやろって感じ。中毒性がある高音が、もうたまらない。しんどいときには聞けない。高音すぎて。クリープハイプを聞きまくってたときの中毒性を思い出す。

 

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Hump Back

第一声、チャットモンチーか??ってなる。3ピースだし。チャットモンチーよりも少し暗いけど、なんかすごく言いたいことがあるんだ!!!うおーーー!!って感じのバンド。

 

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Homecomings/HURTS

ヘロヘロの英語だ。って言われてるけど、やっぱり、女性のボーカルっていいなって思う。

 

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The Wisely Brothers

いや、可愛いかよ。みたいな感じですけど、ただの高音じゃないけだるい感じのボーカルが印象的。ふわっとして、可愛い感じなのに、重いギターの音がのギャップが好き。重いギターってだけで好きになっちゃう俺も俺ですけども。

 

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以上です。なんか色々抜けていそうな気もする。今年本当に色々新しいアーティストの曲聞いた気がする。これもyoutubeさんのおかげなのですが、他にも、宇多田ヒカルのアルバム神ってたし、赤い公園も新しい曲好きだった。相変わらず、きのこ帝国は冬になったらクロノスタシス聞きたくなるし、toconomaはずっと追っかけているし、勝負の朝は、今年もBrand new dawnだったりもした。今後も、どうにかして新しい曲を増やしていけたらいいなー。小説も読めなくなってしまっているし。うん。

 

 

 

 

 

 

愛で駆動する1984の世界

村上春樹の『女のいない男たち』を読んでます。強烈に恋をした相手を、“総合的な存在”と評した男が出てくる話があって、その表現流石すぎますよ春樹さんと思っているところです。

 

表題の話はジョージ・オーウェルの1984なんですけどね。。1984の世界は、ビッグブラザーという存在が一国を牛耳っていて(正確には、牛耳っていると言われている)、そのビッグブラザーへの愛を国民は強要されている世界です。この愛が、最後には成就してしまうからこの物語は面白い。まぁその面白さはさておき、この世界では常に戦時下で食料は配給制。お酒などの趣向品は使用禁止みたいな世界なわけです。しかも、それだけではなく、生殖以外を目的にした性行為はやってはいけない。つまり、個人や物ですら愛することを制限されます。愛することはビッグブラザーにのみ捧げられるように強要され、それに背くものを監視するシステムが日常的にポスター型の監視カメラが設置されるます。

 

こっからわけわからん話をし始めますけど、この世界で配給品=給料(貨幣)と仮定すると配給品は常に困窮しているので、労働力>給料の状態になります。これでは不満が出るので個人それぞれの愛の力を一国を回すために注ぐことでこの必要労働力を賄う形を1984では取ります。つまり、

 

(配給品+個人のビッグブラザーへの愛(=ビッグブラザーからの愛))× 国民  =  一国を回す必要労働力

 

という式で世界を構築するわけです。また、国民の愛への見返りは戦果として戻ってきます、例えば国が敵国を倒した。とか、ある大陸を占領したとか。そうゆうのです、つまり国民たちの愛が報われることを情報としてビッグブラザーからの愛として享受することで、ビッグブラザーへの愛を個人として再生産して世界が回っていきます。

(まぁこの“戦果”がでっち上げだという事が分かってて、きっと富を肥やしているやつが上部にいるんだけどね。)

 

さて、この愛で駆動する世界なのですが。普通に、現実にもあるなって思うわけです。配給品(企業収益)が少なくなっているので、その企業への愛で必要労働力を賄おうみたいな。この愛のカタチは、どのようなものかわからないけれど。

 

じゃあ、どのようにこの愛の強要を1984では行うかというと、まぁ再教育するんですね。拷問で。さらに、さっきから言っていた“ビッグブラザー以外への愛”を徹底的に監視する事で実質的に選択肢をなくさせるわけです。この選択肢の固定化と愛情教育が、個人のビッグブラザーへの愛情が枯渇しない状態を作り経済を回していくわけです。

 

ただ、現実はその選択肢の固定化が成立しないわけです。他者は1984の世界よりも画一化しているわけではなく多様で、自分の立ち位置は“別の場所でもありえた一つの場所”として以外の意味が見いだせない場合もある。愛情の再生産が追いつかない場合もある。

基本的に、愛情による労働力化はその愛情の再生産が追いつけば(どっかから仕入れる+そもそも仕事である程度回復する)なんとかなるし、生きていける。だけど、願わくばその再生産がどっかから仕入れ無くてもプラス生産出来る場所にいたいなって思うわけです。ただ、僕はまずはライスワークを出来るようにしないとな。将来の自己への愛を駆動させて来年度から僕は働かないとな。と、いうかこんだけ言っても絶対もう目の前の仕事にうぉーーってなる思うのだけど。

 

※書き始めたときは、全然企業との関係のことだけを意識したわけじゃなく、恋愛関係とかも想像してたのに書き始めたら企業との関係の事でしか読めなくなってしまった。経路依存性恐るべし。

 

ズートピアのエンディングが納得いかなかった話(ネタバレ満載)

ズートピアの話。【ネタバレおもいっきりします】

さっき紹介した動画の中でも紹介されてましたが。結構前に見て、モフモフのモッフモフだったわけですが。(超モフモフ)

エンディングがね。納得いかなかった事を文章に残しとこうと思って。書きました。また、時が経てば読むさ。何かご意見あればご連絡を。



ズートピアのエンディングがすごく嫌だったわけです。見てからずっと言いふらしてるのですが、やっぱりあのエンディングは納得いかなくて。(観ながら俺がエンディングを作っていた節はあるのだけど)端的にいうと『恐怖による支配を否定しないエンド』だと思っているのです。ズートピアってどう考えても現在のアメリカの風刺的な形で成立しているだけど、、その中で恐怖による支配というものを否定しないエンディングでいいのか。って思うわけです。いや、恐らくディズニー的な回答はあったと思うんですけど。なんかそれいいんかい!みたいに思っているのです。


そもそも『恐怖による支配』ってズートピアでどこで出てくんねんって話なんやけど、1.しょっぱなのウサギのジュディが田舎のキツネに傷つけられるシーン(肉食から草食への暴力による支配)。2.凶暴化する可能性がある肉食獣が近くにいるという潜在的恐怖がみえるシーン3.ジュディがニックに感じるトラウマからのキツネ撃退スプレーを構えてしまうシーン4.黒幕の羊がもつ、凶暴化を促す薬を持っているというシーンとこれぐらいかなと思ってるんですけど、これ完全にテロリズムとセキュリティの政治を反映しているわけですよ。

 

で、話の流れをネタバレ満載で言いたいことを言うためにチョイスして話すと。黒幕の羊が肉食動物への恨みがあって、草食動物だけの世界を作るために、肉食動物へ凶暴化の薬を打ち始める。それを捜索するジュディとニックが最終的に謎を解明して黒幕羊を捕らえるというものです。(もっといろんな視点で見れるのがこの映画のおもろいとこやと思うんですが言いたいことを言うために簡潔に)

 

問題のエンディングはですね、最後ニックに薬を打って凶暴化させて、ジュディを殺そうとするんですよ羊が。その時に、セリフの中で『恐怖による支配は常に成立する!!』っていって銃型の薬を撃つんですよね。ただ、その薬はブルーベリーにニックとジュディがすり替えていて、事なきを得て羊は捕らえられ、ガゼルのアイドルを囲んで多様な動物がはしゃいでみんな平等だ!!といって終わるエンディングなんですよ。

 

 

でもね、実際の世界もズートピアの世界もそんな平等じゃないんですよ。例えば、肉食動物と草食動物が喧嘩したらどうなるかってそら身体的に肉食動物が大怪我させちゃうんですよ。そう言う根本的なバイオロジカルな違いって存在している。そんで、それによる恐怖による支配が成立することは容易に想像できる。でもそんなもん全く気にしないで問題を端において平等だ。で、踊って終わるんですよ。きっと、踊り終わって朝になったらたまたま当たった肉食動物の爪で草食動物の身体は傷ついていたりしてるはずなんですよ。そこを全く言及してないんですよね。凶暴化した草食動物は動画で表現されないんですよ最後まで。恐らく、凶暴化した草食動物が明らかに肉食動物のそれよりも危険じゃないことが見えるからなんじゃないかと思ってるんですけど。

 

でね。ディズニー的な回答はこうなんですよきっと。恐怖による支配はユーモアとかアイディアでそれは回避できる。悪者は捕まえられる。みたいな回答なんですよ。きっと現実の中でディズニーはズートピアのブルーベリーだ!!っていうのがディズニーの回答なんですよ。ただ、その支配が通用する事自体は否定しないですよ。

 

僕は僕的には。最後に恐怖による支配は成立しない。馬鹿げてるんだって言って欲しかった。お互いのバイオロジカルな違いからの恐怖があるなかで、でも支配はされないぜ、共存するぜっていうエンディングがねよかったんですよ僕は。臭くても薬撃たれたニックが愛に目覚めて助かるエンドがまだよかったんですよ。一瞬ジュディがキツネというトラウマを克服する部分でそのエンディングになるかなって思ったんですけど。最後、いろんな内包する問題をほっといてワイワイエンディングだったのがすごい納得できなかったんですよね。

 

 

僕的には、あの後。ズートピアが絵本の世界で、現実には、肉食動物の爪と牙を引き抜いて草食とバランスをとる集落と肉食動物と同等の武装をすることでバランスを取った集落があって。そのなかで、牙を抜くことを否定して捕まった肉食動物と過武装して捕まった草食動物の物語が始まってくれたほうがねいいなって思うわけですよ(超絶妄想モード)

 

というズートピアの話でした。映画楽しい。以上

 

 

 

今をときめく人たち

今日、本を買った。タイトルは、『1篇の詩に対する60日間の考察の記録』と言うもので、著者は及川俊哉、髙塚謙太郎、中家菜津子、永方ゆか、松本秀文、山田亮太そして+谷川俊太郎となっている本だった。もしこの中で、二人以上の著者を知っているならば(谷川俊太郎はみんな知ってるもんね)。中崎町サクラビルの“葉ね文庫”という本屋さんにぜひ行ってみてください。とてもよい空間でした。特に、歌集・詩集に関してはどこよりマニアックなのだと思う。

 

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立ち読んだ時点でこれを買おうと決めた理由は1ページと2ページにある。こんな感じになっていた。

 

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めちゃくちゃ面白いやないか。こういうの大好きだ。しかも、詩のチョイスがスバラシイ。。。俺は詩そんな得意じゃないし、あんま知らないけど、なんか考察しがいがありそうなもの選んできている。いいなこれ!!!と読んでいたのですが。この辺で、店の中がざわざわし始めた。

 

 

『〇〇さんですか!!!私、本当にファンなんです。名前は△△といいます!!』

 

 

どうやら、何かの有名人がいたらしい。俺は全然知ったこっちゃない人だった。

 

 

 

 

 

 

しかし、その有名人の連鎖が止まらなかったのである。俺が外に出るまで、おじいさんんが『ほー。君あれか、あの作品を書いた人かーー話は聞いてたけど。』みたいなことがずっと続いていたというか、さっきのファンなんです。と言っていたガールもなんか名前を認知されているちょい有名人だったりした。

 

ネタバレをすると。その本屋は、歌集・詩集を中心に集めている本屋さんでオーナーさんに聞けばこのような本を買う場所がどんどんなくなっているからそれをどうにか作りたかったのだそうだ。さっきの有名人たちは、現代詩集という刊行の本だったりに作品が載ったりする人たちで、そんな人達が本屋さんを中心に関係が広がる場になっていたみたいだった。

 

当然、そんな本屋に置かれている。『一篇の詩に対する60日間の考察の記録』なんてへんてこな企画本が只者なわけがなく。そもそも余白という詩はこの企画のために谷川俊太郎さんが書き下ろしたもので、考察をする6人もオーナー曰く、“今をときめく詩人”なのだそうだ。僕は全く知らない人だったが。いまをときめいていたのだ。ちょうど、ばらかもんという書道のアニメを見た時も思ったけど。知らない世界で、知らない方法で、知らない人たちによって、ときめいていたわけだ。

 

 

“未知の扉を開けてしまった感”がたまらなかった

 

 

 

普通の本も、江國香織村上春樹となんだかエッセイよりで。チョイスが偏ってたのも好きだったし。またいこうと思う。本も早めに読もう。

 

 

以上。

※最近は、Young never beachとsuchmosというバンドが僕の脳内でときめいています。是非に。