肯定をどのように表明すればよいのか?問題
やまゆーです。
書きたい気持ちがなんか継続しているから、今日も書く。
僕を知っている人はわかると思うけれど、僕は独り言が大きい。ほとんど、ガヤだと言われる。勝手にその場のガヤ担当をやっている。
意図的にしているわけではないけど、直そうとしないことについてはある程度理由がある。(直そうとしても、直せないのかもしれないけれど)
肯定をいつ表明すればよいのか?問題
何かを聞いている時、観ている時に出てくるコメントやら評価をする時に、肯定の発言する機会が明らかに、批判する機会よりも少ない気がしている。
ほとんどの人は、「貴重なお話ありがとうございました。」と、肯定から評価を始めるのに言いたいことは批判や否定になる。
そうなる理由は、分かる。
評価をする時は、批判や論理の隙を見つけたほうが評価者が論理的に見えるし、聞いている方も理解しやすい。肯定は、理由はわからないけれど感情的?に見える。別に感情的でいいのだけれど。
例えば、プレゼン後のコメントってあまりいい印象がない。コアアイディアが批判されなかったら御の字みたいな風潮になっている。
本来は、コアアイディアが肯定されたら「やったー」であるはずなのに。
あの場で肯定を表明するにはどうしたらいいのか。
ツール無しでやるならばリアクションをちゃんと取ることなんちゃうかなと思うわけです。Facebookでいう「いいね!」の反応を表明する。
肯定・満足している人は往々にして何も言わず、不満や批判がある人のみが発言をする。それによって9割が満足していた内容が豹変していく。しかも、批判をする評価者も大筋は満足しているのに、批判部分しか言わないのだ。これは不幸だと思う。
聴衆の「いいね!」を発表全体で感じて細部の批判を聞くぐらいが発表者としてはいいのではないだろうか?ということでガヤ担当をしているわけだ。(自己肯定)
肯定を論理的に説明することはなぜ難しいのだろう?わからん。(わからん)
論理的に肯定できたらいいのだけれど。これが、なんか難しいんだよねー。
なんでかはわからないのだけれど。何かないですかね。論理的に肯定する方法。
もしくは、肯定を引き出せるプレゼン設計。
先に、○○点っていう点数をもらってからコメントをしてもらうっていうのはいい策なんじゃないかなーって大学から思っているのだけど。やったことないけれど。
単に批判のほうが発表側としても大きく聞こえてしまうだけなのかもせんけれども。。。発表者としても肯定されたことをちゃんと自覚できる技術をもつべきなのかもなぁ。
以上、尻切れトンボでしたが。なんか方法あったら教えてください
明日のプレゼン頑張ろう。
テレビがない生活で、失ったものと得たもの
やまゆーです。
テレビっ子でした。
実家ではずっとテレビを見ていたし、寝てるふりしてテレビ見てたりしてました。
親が9時以降観たらだめみたいな教育方針で、その方針に対して妹ともに反抗しまくったこともありました。(あー昔、映画全然知らんかった背景それか。)
大学でテレビが無くなってから、来年で10年?になります。総合的に見たらテレビなくなって良かったーと思っています。この10年近くでなんでもネットに移行されてきたこともありますが、ほとんど不便はありませんし、得たものがたくさんあります。ただ、失ったものも結構あります。ザラッとまとめておきたいと思います。
テレビがない生活で得たもの
・他人の個人の流行りを聞き出す言い訳ができた。
「テレビないから今流行っているもの教えて」ということで、テレビの流行りと同時に対面している個人の好きなものを聞き出しやすくなった。人の好きなものを聞くのは楽しい。
・流行りについていくことを諦める言い訳ができた。
みやぞんを知らなくても、早稲田の変な動きする芸人を知らなくても「うちテレビないんだー」で全て解決します。ついて行きたい流行りだけについていけばいいと思える様になりました。
・コンテンツを作る人の凄さを実感するようになった。
テレビ番組というコンテンツは、遠すぎて、かつ関係者が多すぎて分からなかったけど。ネットコンテンツばかり観ているとコンテンツを作成者と強く紐付けて観れる様になった。PVとか、ニコ動とか。と、同時に作成側の凄さに対して感動できるようになった。
・理不尽なコメンテータの不特定多数への発言を聞かなくて良くなった。
不特定多数に向けた不特定多数用の発言は大したことないんだなって感じれる様になった。個人が無限に言い合うツイッターのほうが一事例に対する観点が多くて好きだ。理解の前に一方通行の評価が来てしまうテレビは怖い。評価を利くならばたくさんの人から聞いたほうがいい。
テレビがない生活で失ったもの
・元ネタが分からない場合がある。
テレビで流行っていることを元にしたネタに対して全く分からない場合がある。「あったかいんだから~」ってなんやねんって思ってた時期がありました。あと、あのCMに出てる女優!!とかあのドラマの音楽!って言われても全く反応できない。
・今、自分の中で流行っているものの世間の認知度が全くわからない。
例えば、Vtuberとかいま来ているのだけれど、世間がどれぐらい流行っているのかわからない。東雲めぐは無理だけど、キズナアイは行ける感じ??そもそもVRはどれぐらいの認知度?みたいな方向感覚が分からなくなる。こうなるとイタイのが、頑張ってすごいねん!!って言ってもそんなん当たり前やんって言われる場合もあるし、全く反応されない場合もある。(Suchmosの世間での認知度がホンダのCMのせいでバク上がりした瞬間はめちゃ面白かった。えっ。なんでいきなりみんな知ってるの?ってなった。)
・バランスの良い情報が入ってこない?のかもしれない。
ネットでの情報はもう自分にカスタマイズされたものしかくれません。テレビはつけとくだけで、ある程度網羅的に情報を提供してくれる媒体だったと思うのでそうゆう自動的に耳に入る情報元がなくなって、自分の持っている情報が網羅的かどうか、世間とずれていないかの確認ができません。これは、世間を知るという意味で致命的なのかもしれないです。マーケターとかなったらテレビ観たほうがいい気がする。
・テレビついてたら反射的に観てしまう
テレビの内容って結構目まぐるしく変わっていて。観る機会がないとたまたま観るとCMから番組から何から何まで初見なんですよ。そら観てまいますよ。今まで、CMの最初の1秒間ぐらいで「あ、あのCMね」ってなってちゃんと観てなかったんやなって実感しました。あと、テレビ観れるときの一番のコンテツはCMになります。番組ではなく。CMってすごいわ本当に。
つらつらと、TVなしライフについて書きましたけど、どうでしたでしょうか?
正直、ネット中毒者なので情報遮断した生活の実現!では全く無縁ですけど流行りに対する諦めができるのは楽だなって思っています。あと、色々知らないという事は、話し相手にとって、とても嬉しいことなのかもしれません。みんな夢中で好きなドラマの話をしてくれます。
これからもTVなし生活は続けていきたいのだけど、結婚して生活も変わりそうなので難しいのかもなー。。テレビっ子に戻りそう。
以上です。やまゆーでした
マチネの終わりまでの長い過去 「マチネの終わりに/平野啓一郎」
「ラストシーンが最高で賞」があるとすれば、どのような作品が思い浮かぶだろうか?
僕が真っ先に思い出すのは、「ジョー・ブラックをよろしく」だ。
あれほど、何度も観たくなるラストシーンはないのではないか。3時間夜更かしする価値は保証する。
過去は変えられる
さて、「マチネの終わりに」である。
本当に最高だった。
この物語は「過去は未来によって変えられる、変わってしまう」という言葉からはじまる、蒔野と洋子という40代男女の5年半にわたる恋の話だ。
そして、読者もこの二人の5年半をページをめくるという形で辿ることになる。
当たり前だろ。読書なのだからといいたくなるのはわかる。ただ、体験が違う。二人の時間を僕たちも同じように体感する。同じ時間を過ごした気になってしまうのだ。
物語はキザで、憎めない主人公である蒔野の過去は変えられるというフレーズから動き出す。
人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、これぐらい繊細で感じやすいものなのではないですか?
この言葉は、二人の関係が始まった瞬間の言葉である。なので、この瞬間。
二人の過去は存在しない。
惹かれ合うきっかけが、この言葉であることがこの物語を読み終わった人たちにとってどれだけ感慨深いものか。
そう、出会いの言葉がもうすでに予見しているのだ、変えられるべき過去を持つ二人の恋を。
「過去は変えられる」というとても魅力的な言葉は、この物語の中で何度も出てくる。とてもきれいな形で、知的に使われる。そして、その言葉はページをめくる読者にも実感として伝わる。伝わるように読んでしまう。
なぜか?
5年半の物語を読者はほとんど余すことなく一緒に読みすすむことになる。前半はとても魅力的な文章で何も考えずにサクサク読んでいける。しかし、半分読み終わった頃に読者は気づく。
蒔野と洋子の過去を作っているのは読者である私だ
5年半を回想もなく真っすぐ進んでいく、そして、互いが傷を追って、すれ違っていく。そんな理不尽の中でも、「過去は変えられる」という言葉が寄す処となり、二人の関係が改善してくことを読者は願う。願いながら、今読んだページを過去としてめくる。
読み進めるページは、“こうなって欲しい”であり、読んできたページは、“こうすればよかった”が並んでいく。ページを進めるたびに、二人の変えられるべき過去を読者は作っていく。
ページを進めることが物語を進めることだという当たり前の事を強く意識してしまう。そして、自分が進める物語が。理不尽にさいなまれるのだ。
そして、後半戦も後半戦。重要人物がこのように洋子を諭す。
自由意志というのは、未来に対してなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来たはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね? しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何かできたはずではなかったか。と。運命論の方が慰めになることもある。
二人が作ってきた(読者たちがめくってきた)過去は運命論として見てしまえば、何も変化を期待できない、運命として処理されるただの記録なのだ。しかし、洋子はこの重要人物との会話によって過去は変えられるという思いを強くする。
現実はだから、過去と未来との矛盾そのものね。
だから、今よ、間違ってなかったって言えるのは。今、この瞬間。私の過去を変えてくれた今。
読者は、何度も運命論にくじかれそうになり、私がめくってきたページが無駄になってしまうのではないか?と思いながらここまで「変えられるはずの過去」としてページを進めてきた。
これほど、ラストに向けて自分が物語を進めていると思った小説はなかった。いや、自分が読んでいるのだから、物語をすすめるのは自分なのだけれど。ラストだって、ほとんどわかっている。タイトルが「マチネの終わり」なんのだから。
こんな読書体験は本当に初めてだった。
みなさんも、読んでいただきたい。映画が公開される前に。(映画版は、石田ゆり子と福山雅治が主演です。)
是非に。
(2019年7月2日更新)
2017年に出会ったおすすめ曲TOP10
バイオ7の恐怖という魅力
ゲームの話をするとき、就活で任天堂の説明会に行った時の君島社長の言葉を思い出す。
『ゲームは飽きられる。これは宿命なのです。だから、新しい楽しさを常に追求しなければならない。』
シリーズ物のゲームは、この宿命を否応なく背負わされる。
ゼルダの伝説シリーズを見ればわかる。
ファミコンスーファミ、GBの2Dゼルダ→時オカの3D化→Willからの剣を振るなどの加速度センサギミック→BoWのオープンワールド
同じシステムの中での新しいギミック(ムジュラの3日間システム、バイオ3のネメシスとか)では、ゲーマーの飽きは止められない。
ゲームシステムの改変が必ず必要になる。(その点、ポケモンって同じシステムで新しい客に常に供給する戦略なのかも)
バイオハザードも同じ宿命を背負っている。
第1段階:バイオ0-3、コードベロニカ→第2段階:バイオ4-6、リベレーションズ→第3段階:バイオ7
と、大きくシステムが変わる。(アウトブレイクは、1.2段階の間ぐらい)
いつも評価されるのはシステム改変後最初の作品。つまり、バイオ1、バイオ4、バイオ7である。
特に、バイオ4のシステムの改変はカプコンにとってかなりでかい話だったというのを当時のファミ通で読んだ。
結果はゲーマーから大絶賛だったのだけど、そのせいでバイオ5、6については4を越えることをかなり苦心して作られたそうだ。
第2段階では、第1段階からプレイヤーの視点が大きく変わり、キャラクター追従の第三者視点TPS(操作するキャラクターの後ろをぴったりくっついて歩く視点)になった。また、射撃時は、一人称のFPS視点になった事で、視点切り替えが必要となり『全体を把握する』『狙いを定める』という事の重要度がゲーム内で増した。
その結果、アクション性が上がり『マップや、敵全体を把握し、効率よく動く』という事を楽しむゲームになったと思う。
その象徴として、第2段階には時間内に多くの敵を倒して点数を競うオプションモード(マーセナリーモード)が存在し、今でもこれを競うプレイヤーがいる。
そして、もう1つ大きな違いは主人公はミッションを持って現地に乗り込む。それまでのシリーズは全て脱出が目的で、逃げている間に、事件の全容が明かされていたのに対して、救出とか原因の究明とか主人公がミッションをもっている。
そのためなのか、第2段階はストーリーがかなり練られている。というか全体のストーリーを進行させようとする。コナンでいう黒の組織が出てくる回のように、第1段階でバラバラに散りばめたバイオ全体のストーリーがかなり進行する。
第2段階は、こんな特徴があるので、バイオのストーリー全体像が知りたいバイオのコアファンやFPSゲームが好きなファンには待ち焦がれる作品となったが、5.6と作品が出る中で、ホラーゲームとしてのバイオが好きな人や、新しいゲームを待っている人達にはだんだん飽きられていったように思う。(山中は、5.6やってないのでかなり偉そうな物言いだけど。)
そんな中、バイオ7である。(やっと本題にたどり着いた。。)
はじめに。
バイオ7めちゃくちゃ好きです。システムと数人の敵キャラに労力を全振りしてる感じで荒いし、ボリュームもそんなないけれど、完全に心持ってかれました。別にそんなにゲームの数やってないんだけどね俺自体。
何が面白いって、怖い!とにかく怖さを追求している。ここに関しては、ホラーゲーム結構やってる人達にとってはパクリが多いとか色々言われているみたいだけど、PRで散々怖さを煽ったのに、期待以上の怖さだと思う。
さらに、その怖さがシリーズ第一段階の怖さと似てるところが、『あ、これはバイオハザードだ。』と思わせる。
シリーズ第1段階は、固定視点と言って監視カメラから覗いたような視点でキャラクターを動かす。なので、視点の切り替え先に敵がいる事が切り替わるまでわからない。この視点が切り替わる通路の角を曲がる怖さ、ドアを開ける怖さがバイオ1の怖さの1つだった。
また、第2段階では、弾薬や回復薬だどの資源の枯渇が起こることはほとんどなかったが第1段階では、資源が無くなって詰む事があった。(実際詰んだこともある)さらに、アイテム欄も限られており常に何を持っていくか?という判断を迫られる。
第1段階は、これらの要素でホラーゲーム・サバイバル・脱出というキーワードが合うゲームだった。
バイオ7はここに回帰する。しかし、第1段階と違う事が2つある。
1つ目は、グラフィックと音の質の向上である。特に、音が本当に怖い。イアホンをずっとしてやっていたけど、そもそもの生活音(ハエの音、風の音)、ドアの開け閉めの音、敵キャラの声が、操作キャラクターからどの方向、距離感なのかわかるレベルで聞こえる。
だから、敵キャラと遭遇しないために音をかなり注意して聞くことになるのだけど、集中して聞けば聞くほどランダムで入る生活音でびびりまくる。
この音の質の向上で、何かがいる事が分かってるが見えない角を曲がらなければならないシリーズ第1段階の怖さを濃縮した感じになって襲いかかってくる。
グラフィックの進化はFPS視点も相乗効果となり、匂いがして来るほどのリアルさで近づいてく。
2つ目は視点である。バイオ7は、FPS視点。つまり、第一人称視点でキャラを操作することになる。この恐怖は、第1段階と比べ物にならない。
そもそものキャラクターへの没入感が固定視点より段違いだし、敵キャラとの距離感が全然違う。敵からの攻撃は『ダメージを受ける事』と、割り切れない怖さがある。
また、FPSは視点のせいで、何度も何度も後ろを振り返ることになる。ゲームの中にもかかわらず。
第2段階でも、振り返ることはあったが、あくまで効率よく動くための全体把握のために振り返っていた。
しかし、7は『怖いから振り返ってしまう』のである。夜の道を何度も振り返るような、感覚で振り返る。しかも、振り返るのが遅すぎてもう死ぬほど怖い。
こんな、怖いものがどこからくるかわからない状態で自身の動かすキャラクターの影や手が一定のタイミングで突然映り込む。しかも、高いグラフィックで。
最終的に、何も動きたくなくなる。まで、いってしまう。
基本的にゲームは、テレビゲームに限らず、クリアへの障害に対して効率的な解決策を見つけてそれを試してクリアしていく。
しかし、バイオ7の場合、恐怖を克服することが効率的な解決策になる。これは人間の性質まで遡って解決するものだ。
だから、初見のプレーではとんでもなく下手くそになる。恐怖のせいで。これは、第2段階のバイオシリーズで操作に慣れたプレイヤーにとっても同じである。恐怖という要素は、プレイヤースキル関係なく、平等にプレイヤーに与えられる障害になる。これはホラーゲームならではのものだ。
僕は、この恐怖による障害によって、バイオ7は完全にゲームとしての面白さが第2段階を凌駕してると思っていて、もうシステムが変わったとかいう問題じゃなく、違う問題解決をしないといけないゲームになってしまった。いかに、恐怖を楽しみながらプレーに集中するかという要素がすごく強くなったのである。
さらに言えば、PSVRでプレーしたらその恐怖は10倍であるとレビューがあり、従来のプレースキルどころではない。
バイオシリーズはメインシリーズ3作ごとにシステムが変わる。つまり、バイオ8はこのシステムの中でさらに恐怖を充実させてくるわけである。
どんな結果になるにせよ楽しみでならない。VRやMRは個人の能力、特に運動能力に依存するゲームを作り出しているがバイオ7の恐怖による障害は、個人の性格や感受性に依存するゲームなのかもしれない。
これまで、プレイヤーに平等に与えられていたゲームが、プレイヤーの性格や運動能力に依存してくるのはちょっと嫌な部分もあるけれど。新しいゲームの形として面白いものがどんどん出てきてほしいなと。バイオ7をやって思った次第です。
以上
ポジティブよりもナルシストを目指すべき
「ここに一杯の水がある」理論
しかし、飲める水は4割で変わることはない。飢え死にしようがさらに分け与える人がいようが4割の水を飲む必要がある。実際に、飢え死にするやつもいる。
二年前に亡くしたはずの友達について
はろー。山中です。来年度から大阪で働きます。仲良くしてね。修士論文を書き終わり、副専攻の単位も全て取り終わったので計画通り卒業とあいなる予定でございます。はい。来年度からもよろしくお願いいたします。
今は、寝る、走る、ゲームする、本を読むだけの要素で生活をしています。
今回は、二年前に亡くした友達の話をしたいと思います。かなり個人的なものです。
僕はまだちゃんと彼女の喪失を悲しめていないという焦りについての話であります。何の教訓もありません。が、僕と同じようなしんどさをもった人もいるのではないか?ぐらいに思って書いております。
二年前、突然亡くした
亡くしました。サークルの同期でした。知っている人もいると思うけど、ちろとい名前の、名前は違うのか。とにかく、ちろの話です。
亡くした日、東京のサークルの同期から電話があり、男性の同期に電話をしてほしいと言われました。いやー、とんでもない体験でした。人が亡くなったことを何度も伝えるのってとんでもなかった。当時は、卒論も佳境の佳境でお葬式とお通夜どちらも行ったことを指導教官に諌められたりしました。(こちとら、友達亡くしとんじゃと思っていた。)
とにかく、不意打ちで何も考えられないまま事態は進み、さらに言えば卒論が忙しすぎてよくわからないテンションでその時期を乗り切り、気づいたときには普通の生活が滞りなく進んでました。
まぁそんなこんなで、ふと気づいたら、僕はちろがなくなったことを悲しむことがないまま生活を送っており、何も泣けないまま、泣くことだけが悲しみを体現するものではないことはわかっているのだが、何も悲しまないまま、普通に生活を送ってたわけです。
これは結構深刻だと思いました。めちゃくちゃ焦りました。
僕は全く悲しんでいませんでした。今もあまり悲しめていません。そのせいで、彼女が僕にとって大切な人ではなかったのではないか?みたいなよくわからない焦りをもっていたりしました。
それを否定するため、悲しみの不在を埋めるために、爆心地に行けば分かるはずだ。と、この二年間、3回ご家族に会いに行ったりもしてました。でも、いまいちしっくりきていない。
いやいや、人生は初めてか?力抜けよ。状態なのですが。悲しみがない事=大切ではないのではないか?という式が成立するのはなんとなく伝わるものなのではないかと思う。
少なくともここにあったと疑いもなく思える心持ち
江國香織さんの『号泣する準備はできていた』のあとがきがとても好きで、僕は何度も読んでいるわけだが。その中にこのような文章がある。
たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。
そして、それは確かにそこにあったのだと思う。
かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短篇集になっているといいです。江國香織 号泣する準備はできていた あとがき抜粋
この文章で書かれていることを結構信頼していて、悲しみは決定的な喪失からもたらされるものなのだと思う。
当然、喪失していないのに悲しめていない自分は、この文章を思い出し、亡くした友達が自分にとって、「少なくとも確かにここにあった」と思うほどの人ではなかったのではないかと解釈しはじめていた。解釈できるなと思って結構長い間苦しんでいた。
解釈をして、それは絶対にないと思って、思いたくて、過去の交流とか引っ張り出しながら、彼女はここにいた。僕は彼女の一部を所有していた。と言い聞かせながらしんどいなー、なんでこんな言い聞かさなあかんねんやろ―と思ってた。
うーん結構しんどかった。(関係ないけど、お盆ってしんどい日なのねってこの二年で知った。)
そんななんやかんやしながら、去年、転機が来た。鷲田さんの本やら友達と話をしていて、僕は、まだちろを決定的に喪失していないのだと。悲しみの方じゃなくて、喪失の方をちゃんとしてないんだと気づいた。
不在感の不在
そう。僕は、まだちろのことを決定的に喪失していない。例えて言うならば、彼女はまだスウェーデンから帰ってきていないぐらいなのだ。
僕は、彼女がここにいたと疑いようもなく思えることができる。でも、それは過去形で「あの時、ここにいたと疑いようもなく思えていた」のだ、よく考えれば彼女との交流は亡くなる半年前から途切れていた。そう考えると緩やかに喪失しかけていたのかもしれない。でも、絶対にまた、なんとなしに会うだろうし決定的に重要な役割を自分の人生の中でしてくれる存在だろうと思っていた。決定的なお別れでは絶対になかった。それは確信を持って言える。ただ、繋がりのグラデーションが薄い時期だっただけなのだ。そして、そのまま薄いまま、生存と不在をシームレス越えてしまったしまったのだ。
つまり、「彼女が不在になったという感覚が今僕に不在」のまま本当にこの世から不在になってしまったのだ。僕に決定的な不在感を与えぬままに。
亡くなった人を穏やかに思い出すためには、不在になったことから接続するしか無い。「いた」ことは、「今、いない」ことを通らずには話が通らない。そして、「今、いないこと」を感じるためには「いるはずの場所にいないこと」が必要であり、僕の場合、サークルの中でちろがいないことを語ることでしか決定的な喪失感の不在は埋めないのではないかと思う。
ちろの話をしよう
どうか皆さん、ちろの話をしよう。少なくとも僕には、みなさんと話さないとだめな理由がある。だいたい社会人になって多忙ではあるがちろの話をしよう。
それもネットとかではなく直接。見えないところで。見えるところで文章を書いている僕が言うのもなんだろうけど。よくわからないけれど。彼女のご両親から知った新しいちろの話もあるし。
たどり着いた文脈やらは、違うだろうけれど、崎浜ともそうゆう機会を作らないとだめだとちろの家に一緒に行った時に話をしたし。たぶん、ちろを知る人はだいたいそう思っているだろうけど。
いつになるかわからないけれど。場所は、ラーメン屋さんになるとおもうけれど。
以上であります。
書いてるときに盛大に泣きました。その為、この文章は盛大に矛盾をはらんでるますwまぁいいや。とても、すっきりしました。