人生の山中にて

なんかあったら、書く

号泣する準備はできてい“た”

久しぶりに友達と話したら、『号泣する準備はできていた』の話になり、そういえばブログに書いたことなかったので、何回も話している気がするのだけど、書きます。

僕は、この短編集がとんでもなく好きだ。何度も読み直しているものもある。ブックオフで見つけたら買うみたいな感じで、トータル5冊ぐらいは買って誰かに貸している(という体でプレゼントしている)。全ては読んでいないが、江國香織の作品は複数読んだ。それでも、『号泣する準備ができていた』が一番好きだ。そこには理由がある。   

江國香織はあとがきがすごい

そう。あとがきである。(もう何度も言うている人にはまたその話かであるが。)他の作品も江國香織のあとがきはとても素敵だ。『泳ぐのに安全でも適切でもありません』のあとがきも素晴らしかった。でも、この作品のあとがきが随一だと思う。

実は、この作品の一周目の時点では、感想もあまりなく、特別な感慨もなかった。同じようにこれといった感慨のない感想をもつ読者は、他にも結構いる。 例えば、amazonのレビューの中には『良かったけれど、泣きはしなかった』というようなレビューがあり、同じような感想が複数ある。この感想は、この作品の『あとがき』なしの感想として象徴的な感想だと思う。

この作品が僕にとって特別な作品になったのは完全に『あとがき-号泣する準備』のせいである。これを読んだ上で、二週目を読むことでこの作品は完結し、自分の中で特別な作品になった。 兎にも角にも、読まなければ始まらないので全文引用する。もし、あとがきを読まずにこの作品を読みたい方は読んできてから戻ってきてほしい。

あとがき-号泣する準備-

短篇集、といっても様々なお菓子の詰めあわされた箱のようなものではなく、一袋のドロップという感じです。色や味は違っていても、成分はおなじで、大きさもまるさもだいたいおなじ、という風なつもりです。 いろいろな人たちが、いろいろな場で、いろいろな記憶を持ち、いろいろな顔で、いろいろな仕草で、でもたぶんあいも変わらないことを営々としている。 『私は、人間のひとりひとりが、意志通りに、大きな仕種で、自分の人生を描くのだと思うわ。鮮やかな、決定的な方法で』 と書いたのはフランソワーズ・サガンですが、人々が物事に対処する仕方は、常にこの世で初めてであり一度きりであるために、びっくるするほどシリアスで劇的です。 たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。 そして、それは確かにそこにあったのだと思う。 かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短篇集になっているといいです。

ここに収録される物語の『成分はおなじ』

まず、この文章自体が綺麗すぎる。なんだこれは。勝手に、定期的に声に出して読みたい日本語認定している。

その綺麗さの上に、この『あとがき』によって読んできたすべての物語に繋がりが生じる。これらの物語の『成分は同じ』なのである。

初見では、収録されている短編たちは同じもののようには、読めない。しかし、このあとがきを読めばこれらの小説たちの読み方がわかる。 それぞれの短編は時系列も、立場も違うが、『喪失』及び喪失に必要な『確かにそこにあった』と思える『所有』について書かれていたのだと。

『熱帯夜』には、『行き止まり』という表現が出てくる。二人の関係においてすべての望みがかなってしまい、その先がない不安から主人公が吐露する言葉である。これは、『所有』してしまったことによってこの先『喪失』しかないことを予感することによって生じる発言であり、『こまつま』に出てくるブランデーは、かつて自分が『所有』し、『喪失』してしまったものを象徴している。(こまつまを読むたびに、よくこの場面を切り抜いて小説にした!!と思う。めちゃよい。) そして、最後に収録される『そこなう』には決定的な、『所有』の絶頂からの『喪失』の瞬間が描かれる。(この瞬間の景色の変容ぶりが最高であり、僕は『そこなう』が一番好き。)

このように、あとがきを読んでもう一度読めば、同じ成分のどの時系列なのかを感じながら読むことができる。

号泣する準備はできてい"た"

さて、もう一つ同じ各短編に共通しているものに言及しなければならない。それは、すべて『喪失』よりも『所有』に重きをおいて話されることである。ここにタイトル『号泣する準備ができていた』が過去形であること意味があるのだと思う。あとがきの一部をもう一度引用する。

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。 そして、それは確かにそこにあったのだと思う。

このあとがきにあるように、『号泣の準備』ができるのは、喪失を行うずっと前なのである。号泣するほどの悲しみが通過するときに、その悲しみはその瞬間に起こるが、その悲しみの根拠は『確かにあったと疑いようもなく思える』ことなのである。つまり、『所有した』という幸せな事象自体が『号泣の準備』となる。

この作品たちは、『号泣』そのものではなく、『号泣の準備』についての物語である。そのため、号泣する時点からみてその準備は常に過去形になるのだ。

こう考えると、最初に引用したレビューのように読者が泣く事も、ましては号泣する事もないことに納得がいく。 なぜなら、『号泣する準備』というのは、『所有した』という悲しみや号泣から遠いところにあり、時には幸せの絶頂であり、何気ない会話であるからだ。

この小説の素晴らしいところは、『喪失』の劇的な悲しみにフォーカスされがちである物語の中から、何気なく、比較的地味な『所有』の側面を光らせたことだ。物語によってはとてつもなくドン詰まりの状態から始まる場合もある。しかし、その中でも必ず過去の「確かにそこにあったと疑いなく思える」所有について言及される。また、喪失を経て過ぎ去った後でも、新しく違う何かを自分が『所有』をしている場合もある。

そう読むと、所有が未来の悲しみを決定づけながらも、それでも新しく「確かにそこにあったと疑いなく思える」ものを作っていくしかないのだと、言われている気もする。悲しまないため、縛られないために所有しないという生き方もあるだろうけど、僕はこの不安定で、滑稽に見える生き方でもいいか。と、この小説を読むと思ったりする。