CDアルバムを聴く時、私は何を聴こうとしているのか?
音楽を聴くとき、何を聴いているのか?
未だに、音楽サブスクは登録せずCD音源をスマホに入れて聴くのと、youtubeで聴いている。けサブスクは入れてないのには特に理由はない。
最近、CDアルバムの音源を聴く時、必ず1番最初から聴きたくなる。なぜか?
二つを比較して考えると僕が聞きたいのは、『私のいない音楽』なのだと思う。
youtubeはあまりにも私の履歴を感じさせる。もっと言えば、他人の履歴、他人の作ったカテゴリーと私との関係を感じさせる。
「あー。この曲たくさん聴いてたのね最近」とか、「この曲は、あの曲と似ているのね」とか。
CDアルバムは、そこを切断する。選択したら最後、作者の意図だけが流れ込む。私は、一時置いてかれる。視聴者は私を感じなくていい。
youtubeという圧倒的に、開けた世界なのにも関わらず、CDというアナログで制限が明確のものの方が自分という枠を超えて音楽を“聴かせ”にくる。
『自分が選んでいる以上、CDにも自分の趣味趣向が反映されるじゃないか!』
そうなんだけど。
その趣味趣向というレイヤーの話ではなく、もっと具体的で瞬間的な。実際に具体的に聴いているその瞬間に「私」を感じるかどうか。
youtubeに流れるものは、必ず、今聴いているその音楽さえも「私」というタグがついて保存される。疑似時に自分が編集したような音楽リストを聞くこととなる。
むしろ、私が選択した。という、意思よりも「私のデータベース」が優先されてしまう気持ち悪さなのかもしれない。
CDアルバムを聞き始めるという「自分の意思によって、この音楽を聴くという事を変えられない状態」を作ったのが、「私の選択」である事が大事なのかもしれない。
過去の私の蓄積に、今の私の意志が埋もれてしまうような感覚、気持ち悪さを、私以外の意志、意図に身を任せる選択をすることによって固定化する。今の意志の継続と、その意志の意味の大きさを感じるために。
これは音楽以外にも当てはまる。映画を観る、本を読む。その瞬間に、私は存在しない。
時間が流れることを、私が次の私に遷移した事で感じるならば。youtubeやその他広告はすぐに次の私に遷移させようとする。
逆に、他人に身を任せるその瞬間は、身を任せたその『今の私』が維持され、timeとしての時間は折り畳まれ、その私の中に収納される。
私が変わらなければ、私が認識しなければ、時間は流れていようが流れていまいが関係ない。事後的にtimeとしての時間が流れたことを知るだけである。
と、この辺まで書いて。
そういえば、『心にとって時間とは何か?』を買ったけど読めてないんだったと思った。なんかその辺の話だった気がする。読もう。