人生の山中にて

それもまた、一局。

満を辞して個性を殺せ。

 

 

個性を大切にしよう。

 

 

対他人に対しては完全に同意である。相手をちゃんと1個人として扱うのは、とても大切だと思う。

 

 

ただ、そろそろ自分の個性についてはへし折ったりしてもいいのではないか?

 

 

個性とは、自分の特徴であり、その特徴は元を辿ればこれまでの教育環境やら生活環境の寄せ集めだ。

 

もっと元を辿れば、個人の選ぶことのできない親とか幼少期の体験とかそうゆうものから形成されたものだ。

 

 

ここまで考えると一気に、なんか自由で、自分が選択できることのように見える「個性」とか「自分らしさ」が窮屈な足かせに見えてくる。

 

 

もっと遠くに。今の自分の知らないものはきっとこの足かせ、この重力の中心から遠いところにある。

 

 

 

では、個性を殺そう。満を辞して殺していこう。

 

 

もう人生ある程度まできた。

 

 

どうせ、足掻いたとしても私たちの足は、今まで歩いてきたこの地面に引っ付いたままだ。

 

 

いきなりどっかにぶっ飛んでいきゃしない。どう頑張っても離れられないだけの重力が、僕たちの個性の中心地には蓄積されているはずだから。自分にとって没個性的な試みも他人から見たら、個性的に見えるだろう。

 

それだけが、個性の中心を少しずつじわじわと変えていける。

 

 

電車の時間になんか適当書くようになってきた。適当に読む時期ももう時期きそう。

メイメツするイルミネーション

 

昨日ボルタリングの帰りに会社の同僚とイルミネーションのある道を歩いていたら、その人が、「今年はイルミネーションが控えめ。去年は、電気が波のように“メイメツ”していた。」というような事を話した。

 

 

僕は、一瞬「メイメツ?なんやそれは。。」と考えてちょっとしてから、「明滅か!なるほど。」と思って、話に戻った。

 

 

そのあと、明滅ってすぐ出てこないわ多分僕なら、「波のようにチカチカ光って」とかいうだろうなと思った。でもそれだと、チカチカの表すノイズ大きくて明滅の方が、点滅頻度とかが想像されなくて、ふさわしそうだなと思った。その同僚は、前職で言葉の仕事をしていたので、流石だわと感心した。

 

 

文系と理系の違いは、ロジカルさではなく、説明に使う道具の一意さにあると思う。が、故に文系の人は理系よりもその道具の不安定さから、ロジックを組む上で別の高度さが必要だと思う。

 

理系は、数学や物理、アルゴリズムなどの道具の一意さに乗っかってる分、楽だ。例えば、チカチカや明滅ではなく、数式で明滅を表せればこの不安定さは表に出ない。一意であるが故に初めから名づけられてるし、説明する必要もない。

 

文献に、「チカチカ」と「明滅」が出た時その意味を知るには意味の不安定さを知ったうえで、話を進めなければいけない。「チカチカというのは当時の背景では、明滅の頻度が多い印象があり、波は細かな動きだったのでは?」とか飛んできそうである。

 

ノイズの少ない言葉を使いたいとかそうゆうわけではないですが、この人のような言葉を使いたいなー。と思った。僕には難しいだろうけれど。

 

世のワーカーホリックの皆さん。僕が間違っていた。

 

 

あれ?去年の音楽のやつやってなくない?

やります。誰も需要ないと思うけどやりますから。(今月中に)

 

 

山中現在、仕事が忙しく。まさに、心を忘れる状態です。

 

ですが、世の中のワーキングホリックの皆さんからみたら、今のぼくなんてミジンコぐらいの忙しいことでしょう。いつも忙しいものね皆さん。

 

 

勘違いしていました。

 

 

「いやいや、仕事そんなやってどうしますの?」

「確かに、やりがいとかはあるけど楽しくはないやん。」

「将来の役に立つ??仕事で得られる知識ほど、役に立たない。と思ったことはない。」

 

勘違いしてました。

 

 

世の中には、仕事そのものが純粋に楽しい状態が存在しているのですね。そんなものは基本的に存在しないと思ってました。

 

 

そんで、仕事楽しい状態の中では時間が歪む。身体が「あ、これ以上は今日はやめとき?」と言っててもちょっと超えたくなる。

 

それこそ、心忘れる。心忘れるって面白くて、自分の身体の中で、「わたし」が消失するわけですから。その時の身体は、誰のものでもないんです。誰のものでもない身体は適当に振り回せます。私の身体から「わたし」が抜け出してる場合も当てはまる。

 

ただ、この誰のものでもない身体でも、警報鳴らしてきたりするわけです。糖がいるよー!とか。ね。

それが、建物の警報みたいに鳴るんですよ。あれ?なんか鳴ってるな?と、その方向を見つめたら、それが自分の身体だったりして。

 

 

ワーキングホリックのみなさん。僕は勘違いしてました。

仕事が楽しい状態は、存在していて。その時の自己破壊的な快感は結構クセになる。困ったことに、その状態のアウトプットも悪くない。

 

ただ、これやり続けるとマジで壊れる気がする。いつか建物の警報を止める方法を知ってしまう。そして、次は違う警報が鳴って、また止めに行ってと。どんどん深くなる。ナルトの八門遁甲みたいに。

 

 

結構危ない。仕事が楽しいからなのか、この自己破壊的な快楽が楽しいのか取り違えたら戻れなくなる。

 

 

 

ここまで書いて「これ仕事自体が楽しい場合以外も、快楽状態起こせるな?」と思ったあなた。

きっとそうで、自分破壊するの楽しいんだわ。先輩怖いとか、家族のためにとか、圧倒的成長とかよくわかりませんがその先に自己破壊的な快楽があって、すり替わっちゃうかもしれない。勘違いしてはいけない。(自己破壊的な快楽自体はなくてはならないものだけど。)

 

用法容量を守って、この快楽を感じるべきだわ。そのために神が下さった土日だわ。と、感じています。

 

 

あ、別にそんな世に言うほど僕忙しくないですよ。平日10時会社出るとかが出てきたなぐらいです。

 

では。今年もよろしくお願いいたします。

無限な私の有限な部分-ハイドをどのように引き受けるのか-

欲望会議超ポリコレ宣言を、読んでポツポツでてきた事を書いておく。本当にいい本でした。

 

 

犯罪者がいる。DV夫がいる。引きこもりがいる。自殺者がいる。全てのこれらの人たちの延長線上に僕はいると本当に感じている。それは人間だから、という共通点からくる可能性の話ではなく。自分の中にこれらの人になりうる要素をバリバリに感じる。そこに断絶はない。

 


ただ、僕は同時に彼らとは全く違う。それがなんなのか分からなくて不安だった。一歩違えばそのようになるのではないかという不安だ。一つ違いをいえば、当たり前だが、経験が違う。彼らの経験を僕が同じように得ることはできない。自分の中に感じる彼らの持ってるだろう要素を理解することはできても彼らそのものをそっくり理解はできない。

 


一人の人間には無限の可能性がある。例えば、僕の左上の歯だけを切り取れば虫歯。そのトリミングを口にまで広げれば、ぺちゃくちゃうるさい奴。この人間の呼称といえばやまゆーやらゆうすけやらだ。このように細分化するのは無限にできる。ただ、指定したり、評価するときは有限化しなければならない。ぺちゃくちゃうるさいだけでは無限の私を表現できないが、私のしゃべりだけにフォーカスしたらぺちゃくちゃうるさい奴という形容はありうる。

 


僕を有限化すれば、引きこもりも、DV夫も、引きこもりも、自殺も、殺人さえも、全然ある。ある部分をトリミングすれば引きこもりのやまゆーは確かに存在する。ただ、実際に動くのは無限の存在である私だ。無限に表現できる私なのだ。

 


無限の存在である限り、誰にも理解される事は出来ないし、自分自身の傷つきも気づきも行動も誰にも代替可能ではないはずなのだ。もし、代替可能だと感じるのならばそれは自分自身を一時的に有限化して共有できるようにしているからだ。例えば、僕の虫歯が簡単に治療できるのは人間の歯という私の一部として有限化してるからだ。

 


なので僕は彼らの悩みも苦しみも、理解できない。ただ、彼らの有限化された一部分を無限の僕の中の有限化された一部として見ることはできる。そういう意味で、彼らの一部を理解する事は出来る。そして、その中には共通化可能なものもあるだろう。

 


ロバート・ルイス・スティーブンのジキルとハイドの物語の中で、ジキルは善良な自分自身の陰にハイドを、見る。そして、ハイドを具現化させるための薬を開発し、二つ目の人格としてのハイドを実際に持ってしまう。善良なジキルと相反する悪業をするハイドを持ってしまうのだ。

 


よく話されるジキルとハイドの比喩は、ジキルの善とハイドの悪との人間の中の二面性を指したものだと思う。ただ、実際の物語の中でのジキルとハイドの関係は比喩の状態とは少し違う。先ほど話したように、ジキルはハイドの要素をも含んだ無限の存在だが、ハイドはジキルから切り離された悪しか持たないジキルの一部、有限な存在だ。だから、ジキルは無限な存在として悩む。苦しむ。そして、最後はハイドに完全に変わりたいという欲望に負ける前にジキルとして自殺する。

 


なので、ジキルとハイドは善と悪ではなく、有限な存在と無限な存在の対立しても見ることができると思う。ジキルは自分自身の無限の可能性に耐えられなかった。善良である自分の中に闇がある、傷がある、無意識があるその状態に耐えられなかったのだ。ハイドのようにある有限で許された範囲で、暴れる欲望に負けてしまった。

 


僕らというか全てのものは無限な存在だ。そして、どのようにも可能性は広がっている。この中で、僕の一部として闇を持つことは問題ないはずだ。というか持ってしまうだろう生きている間に。その有限化したら悪である部分を閉ざすことは私の無限の可能性を多分、狭める。健全な私という有限な私でしか、活動できなくなるということなのだから。

 


ただ、当然のごとく社会的には悪なのだ。(これが悪とするかどうかは別議論として)この無限の中にある悪の自分を(同じように、善なる自分を)どのように引き受けるのか。ジキルができなかったこの有限な自分たちの引き受けをどのようにすれば引き受けられるのか。

 


カナダ行ってからずっと考えてるそんなことを読んで、また、考えた。

 

 

 

ちなみに前も書いた気がするけど。

ジキルとハイドでは、ジキルが最初にハイドになる瞬間の描写の中で、「善人になることを願えばそうなれた。」というようなことを書いている。つまり、ハイドがジキル以上に善良になる可能性もあったのだ。このハイドが善良なストーリーは、結構想像したら面白い。逆ジキルとハイドと勝手に呼んでいるのだけど、結局ジキルは同じように死んでしまう気がしている。そしてその理由は、無限の自分と有限の自分の対立が原因になる気がする。

 

 

 

 

過剰が過剰でなくなる時

この動画の最初が渋谷のラブホ街から始まることを知って、〝リンスインシャンプー〟がどんなものか。いきなり、鮮明になる。凄まじい。

showmore/rinse in shampoo

www.youtube.com

 

よく日本の技術はサービスに対して過剰すぎるということが言われる4Kや8Kの話とかそうだよねー。求められるサービス水準に対して、必要ないよね。と安易に思っていた。
ただ、ゲームでそうとも言えないことが起こって技術の進歩って一筋では扱えないなーと思った。
具体的なタイトルとしては、バイオハザード7、エースコンバット7である。
後者はプレーしていないが以下のリンクでどんなものなのか知った。
エースコンバット7』はもはや面白くないフライトゲームに成り果てた
 
バイオハザード7については、僕もなんか書いたのでよかったら読んでほしい。
バイオ7の恐怖という魅力 - 人生の山中にて http://yamayu.hatenablog.com/entry/2017/05/17/070636
 
この両者ともリアルを追求した作品だと思う。それは画質だけでなく音楽や操作性も含めて。その中で両者とも、プレイヤーにこれまでにないストレスを与えることに成功している。
バイオハザード7ではゲームと客観視できない恐怖を。エースコンバット7では、現実に起こるバーティゴ(空間識失調)をゲーム上で起こしている。
 
これは両作品ともに、今までは過剰な技術(リアルすぎる画質、音等)だったものがもたらしたものだと思う。
 
過剰なものが、過剰ではなく求められる水準に変わるのは、求められる水準側、つまり人間側のニーズが変わるからではない場合がある。
今回の場合は技術側が、今回のような“リアルなストレスを与えるゲーム”という水準を創り出したのだと思う。
 
イノベーションを技術革新と訳した日本語を批判する話は耳にタコになるぐらい聞いた。だけれど、技術革新として訳せる世界もきっとあるのだ。
 
8Kはどうなるのかわからないけれど。(どうなるんだろう。。)
 
安易に、『イノベーションは組み合わせ』だと現状の過剰な技術を批判するのは辞めようとこれを機に思った。
 
 
 
 

会社辞めて、10週間ほぼ缶詰でプログラミングの勉強した話

新生赤い公園の2曲目が、良いのでみんな聞いて

 

www.youtube.com

 

赤い公園「Highway Cabriolet」

 

 

12月8日から10週間、ほぼ週7日10時から20時までプログラミングの勉強をしていました。転職先で粉砕されるべき自信を手に入れたと思います。ここから、本格的に転職活動が始まります!!

 

 

辞めました報告がまだでは?

ちょっと、退職直後にそんな気持ちになれなかったので先延ばしにしておりました。

実は、引っ越し報告もちゃんとできておらず、今は大阪ではなく、千葉県に住んでおります。松戸いいところ。

 

 

前職を辞めたきっかけは、奥さんが千葉に行くことになったからです。(ただし、3年の期限付きで。)

 

 

3年間千葉に飛ばされる。そのあとは、千葉じゃないかもしれない。そんな中の判断はかなり微妙なところでした。人によっても意見が割れて、3年後のタイミングで転職したらいいやん派と今千葉に行ったらいいやん派の二つの派閥がありました。

 

まぁ、結果的に千葉に行くことにしたわけですが。理由は、特になく、直感的なもので。二人とも事前に東京行くんちゃうか?という予感めいたものがあって、千葉に飛ばされると聞いた時お互い結構笑っていたのを覚えています。

 「まぁ、実際東京住んでみたかったしね。」

という感じでした。

今の所、実際住んでみて良かったです。千葉ですがね。

 

 

奥さん転勤以外の辞めた理由

と、まぁ奥さんのせいにすることは完全にお門違いで、職変えたいなーという思いはありました。そもそも前職では、アプリとかを作ってたのですが、開発業務なのにも関わらず、主な業務はスケジュール管理で運用・保守・デバッグやってたという感じでした。新規事業とかのアイディアも出していましたがオプション的な業務で、何も作っている感じがしなかったんです。開発なのに。外部委託先に作ってもらう交通整理を延々としている感じでした。

 

ただ、アプリとかWEB系については社内で〝知っている人〟扱いだったので、外部のエンジニアの方にはたくさん会えました。そして、会う人会う人魅力的だったんですね。職人気質な人からどっちかというとクリエイター寄りの人から様々でしたが。

 

 

そんな中、他の人が往々に感じるように作る側に行きたいなーと思ったわけです。じわじわとそんな気持ちがあった中で。二つ、やっぱ辞めたいと思った出来事がありました。

 

 

一つは、ホンダを辞めた人のブログですね(下に置いときます)。これを読んで。同じ状況だ。そして、この人の感じる絶望感を僕は感じてつつある。まだ、僕は年数が経っていないからまだ発見がたくさんあるかもしれないけれど、この絶望は僕にも遅かれ早かれ差し迫ってくる。と思いました。

 

honda.hatenadiary.jp

 

もう一つは、前職で何度もエンジニアさんの提案が営業側や顧客側の提案を超えて行くのを見てしまったからです。技術的な部分についてはもちろんなんですが。

あるベンダーさんとの案件では、こちらの〝こうゆう事したいんです〟みたいなthe 大企業のざっくり相談に対して、実際のモノを見せてもらいながら提案を何度もしてもらったりしました。

その打ち合わせの質もアウトプットの質もアウトプットへのこだわりも、僕らの持っていった〝こうゆう事〟を明らかに超えていて、本当に楽しそうでカッコよかったんですね。

 

 

〝作れる企画者〟の強さをそのベンダーさんから感じたわけです。(そこまで言語能力が高くない僕にとって、作ったものを見せながら、人と話をできるというのも魅力的に写ったんだろうなと思っています。) 

 

プログラミングスクールの話

そんなこんなで、ITに片足突っ込んでいたので、次はエンジニアになろうと思ったわけです。中途半端に片足突っ込む系の転職するのではなく、きっちりとジョブチェンジしようと。

 

プログラミングスクールに入ることは、退職の2ヶ月前ぐらいから考えていて、ちゃんとジョブチェンジするには重石が必要やなと。言い訳して中途半端なオチは嫌だったので、

 

11月の末ごろから本格的にプログラミング生活が始まりました。正直、楽しすぎて。楽しすぎて仕方ない生活でした。プログラミングが特別面白かったのは、定かではないですが、仕事辞めたらこんだけ勉強やらインプットできるんか。素晴らしい。しかも、アウトプットも伴っているから強制感があるし、素晴らしい。素晴らしい!!みたいな気分でした。就活したくないです。

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毎日Workflowyに調べたことを書いてやってる感を出してた。

 

 

最終的に、軽いものから重い物までアプリを4つぐらい作って卒業しました。最終アプトプットは、メルカリのコピーサイトを4週間かけてチームでガイドなしで作成して、実際のサイトの軽そうな仕掛けが、こんなにしんどいコード書かれてるのか。とか、 案外慣れたらいけるなとか。とてもいい経験でした。

 

 

僕の通っているスクールは、TECH::EXPERTというやつで。まだ、結果は出ていませんが転職の斡旋もしてくれて50万という値段です。(退職金をほぼぴったり、横流ししました。)

 

 

独学VSスクール論争はちらほらあるし、スクールのエンジニアは微妙という評価もあったりするのですが、10週間という時間でスクールに入るのは最善だったと思っています。

理由は、二つ。

1. 環境を作ってくれる。

70人ぐらいワンフロアの施設を渋谷に持っていて、ここで毎日受講生がプログラミングと向き合っていました。この環境がなかったら僕はスマブラ生活から抜け出せなかったでしょう。誰かが、やっているのに俺は止まってていいのか?という問いができることは、とても大事でした。

 

2.適切なマスキング

ここがプログラミングの勉強の肝だと、今も思っています。どこまで、前提条件や背景知識を深めるのか?勉強の哲学でいうと、どのタイミングで知識の水準を仮切断し、次に進むのか?ということが勉強においてとても大切でした。

 

僕のスクールのカリキュラム(どっかから、買ってるのかもしれないけれど。)は、この辺がかなり練られていたと思います。全てを伝えることはできるが、6週間後に伝えた方がいいこと。1週間後、次のアプリ開発時、そもそも今は知らなくていい。このマスキングが絶妙で、自分で調べたければ調べればいいし、調べなくてもアプリを作りきる最低限の知識は得られる。

 

 このマスキングがなければよくわからない沼にハマって、勉強辞めてしまうケースもたくさんあるだろうなと思います。ハマりやすいので、本当によかった。

 

 

転職活動について

まだ始まったばかりなので、何とも言えませんが、色々試して少なくともゴールデンウィーク明けには働いていたいと思っています。山中に合うかもよ!!!という、企業ありましたご紹介いただければ幸いです。

 

一応Wantedlyとかに、プロフィール書きました。プロフィール辿れば、作ったものを見れる。はずです。(何でディレクターなんやろう。。。)

www.wantedly.com

 

 

 

では、今後とも山中を暖かく見守っていただければ幸いです。

 

 

 

ポケGOと言い訳の向こう側


どっかの企業の面接で、「僕たちが楽しいと思っている事の楽しさは、上の世代にも通じると思うんです」

 

 

 

 


と、言った事がある。

 

 

 


指しているものは、今思えば特にゲームだったんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 


特に、その時はソシャゲ。

 

 

 

 

 

通勤中。たくさんの人がゲームをしている。

 

 

しかし、何年も続けているプレイヤーでさえ他の人に説明する時には、「まぁ暇つぶしなんですけどね」と答えている気がしていた。

 

 

 


人間には言い訳が必要だ。

社会的に、許された理由が必要だ。


ゲームが楽しい。

ゲームが趣味。


は、上の世代ではちょっと。許されない(ここ3年一気に変わった気もする)

 

 

 

 


ゲームは楽しい。しかし、暇つぶし。いつでもやめれる。


これが落とし所のようだった。

 

 

 

それに迎合してなのか、「暇つぶし」を歌うソシャゲがどんどん量産された。

 

 

 

 

糞食らえだと思っていた。

 

 


ポケGOがやってきて、もう2年半になる。

 

 

 

どう考えても暇つぶしではない高齢者プレイヤーがたくさんいる。暇つぶしではない。ライフワークとしてのゲームプレイヤーが。

 

 


彼らは何と答えるのだろうか?

ポケモンという〝キャラ〟依存でもないはず。世代が違うのだから。

  

 

きっと、楽しそうに自慢しだすのではないだろうか?

言い訳の向こう側で、楽しいと純粋に答えられる開放感と共に。

 

 


ゲームの勝利のはずだ。

 


言い訳の向こう側で、一つに固まっている白髪の混じりの集団を見ると少しガッツポーズしてしまう。