人生の山中にて

なんかあったら、書く

『悪は存在しない』の気になったところ(ネタバレ)

もしかしたら、誰かと話すことになるかもしれないのでメモしておく。別に何か考察とかがあるわけではない

 

・主人公の中立性

中立として書こうとしている。ただ、中立すぎてなのか、そもそも人格がよくわからない。なのに存在感だけがある。なのにラストがあれだからかなり混乱する。

 

・ラストのハリボテの鹿

『偶然と想像』の一話のラストの手法と同じでハリボテっぽさがあるからそれがバーチャル。想像の中である。つまり、ハナは傷ついた鹿に殺されたと主人公は想像したのだろう。それは現実では定かではないが。

 

・想像の中で、主人公の娘ハナは自分から鹿に近づこうとする。

自殺のようにも見える。つまり、主人公はハナが自死しうると想像できる状態にあった?

他の考察にもあったが、主人公とハナとの関係性は微妙で。主人公があまり関心を払えていないように思える。ハナの知らなかった感情にあの想像の中で気づくという感じなのか。ただ、主人公の想像なので気づいていないが知っているみたいな状態だったのだろうか。

 

・主人公の妻、ハナのお母さんの存在

写真から3人で暮らしていたことが分かる。ありがちだけど、この存在が何かしら狂わせたみたいな話なのだろうか。

 

・家の中のピアノとキジの羽で作る楽器(名前忘れたピアノのようなやつ) 

キジの羽を区長に渡した時、楽器の話をして自分は楽器は弾かない。誰か亡くなった人が弾くというようなニュアンスが残る。これは、今思えば当てはまるのはピアノを弾いていたであろう主人公の妻なのではないだろうか?

 

・区長からの信頼が何か異様な感じがする。便利屋としての役割だけであんな感じになるだろうか?

なんか気持ち悪い。

 

・区長はハナ捜索の際に、一緒に外に出て探さない。

身体が悪くても普通探さないだろうか。達観しているようにも見えたし、次に起こることが何なのかわかっているようでもあった。

 

水は低きに流れる。環境汚染とかそうゆう話ではなく。上で起こったことは、必ず下に影響する。上に住む者はそれをわきまえて行動しなければならない。

 

上で起こった事。というのはラストシーンではなんだったのか。

この監督が『偶然』をテーマにしている。

この水の話は、偶然な因果応報というように解釈できる。

 

・棘のある木で手を切ってしまう東京から来た女性

出てきた中で一番気になっている人物で。この人の役割がわからない。ラストで、棘のある木で手を切り、主人公の手当を受ける。

ここでも、主人公は娘を優先せずにこの女性の手当を優先する。そして、おそらく不慣れな場所に連れ回した事を謝る。

 

・東京から来た女性は、家の外で帰りを待つが最終的に部屋の中に入ってしまう。

何か、執着のなさを感じる。とても親切にしてくれた人の娘である。確かに、自分ではどうしょうもないし寒いで家の中に入るのは分かるが、映画として家の中に入る描写が必要だろうか?外で待っているシーンだけでもいい気がした。

 

・グランピングは鹿の通り道であるという車内の3人の会話。

多分、一番重要な会話なんじゃないだろうか。この会話の中で二つの内容の話をしている。

 

1. 鹿は傷ついている場合以外は、人間に近づかず、攻撃してこない。

間接的に、ハナちゃんの最期を想像させる 。

 

2. 『グランピング施設を建てたら鹿はどこに行く?』→『どこか他の別のところに。』

これで会話が終わるが恐らく、その先は。

『他の場所がない場合はどうしたらいい?』

なのではないだろうか。

ここまで書きながら、気づいたが。主人公はこの場所でしか生きられない境遇なのかもしれない。鹿のようにどこか別の場所にはいけない。

(鹿も別に他の場所に行けるのかは定かではない)

田舎側の人間全般そうだが。どこか他の場所に行く事はできない側の人間たちなのかもしれない。

 

・ハナちゃんの役割

もし、鹿に人格があるならば。『どこか他の別のところ』に行くのは、お前たちだ!と言いそうである。そもそも東京から来た2人は2人とも今の職や場所に執着がない。

男性側は都合よく移住しようとしているし、女性側は明確に『これが最後の仕事』と言い切っている。

つまり、今と違う他の場所に行くのは明らかに2人なのである。どのような場所に行くかは、男性はラストシーンの通りいなくなり、女性はもしかして主人公の家に住むことになるのではないだろうか。(想像だが。)

 

話が飛んだけど、鹿側が『別の場所に行くのはお前たちだ!』の意思を伝えるには主人公の娘をある意味生贄として利用するしかなかった。コミュニケーションとして。そうなった。

 

以上。

書いてだいぶ消化できて良かった。なんか思い出したらまた書く。

 

『読めるようになる』という快楽

エンジニアとしてジョブチェンジしてから5年が経った。最近になって、(やっと)コンピュータサイエンス。つまり、コンピュータの中で起こってることを知りたいと思うようになり、本を読み始めた。

 

きっかけは、10才年齢下だけど僕の3倍ぐらい生産性のある人に出会って一緒に仕事をしているからだ。当たり前だが、知識がなければ比喩なく話にならない。バックグラウンドの違いをひしひしと感じ必要に駆られ読むことになった。

 

違うタイプの本に会う時は常に、他の人からやって来る。

 

何冊か軽い本『インターネットはなぜ繋がるのか』/『プログラムはなぜ動くのか』系を読み直し。つい最近、『コンピュータの構成と設計』という教科書級の本を読んだ。

 

そして、思った。

 

まず、半分以上が理解できない。読むのにとんでもなく時間がかかるし、後半になるにつれて前半の理解度が効いてきてさらに理解できなくなる。何度も戻る。理解している前提で進む著者の話し方にイラつく。

 

ただ、読み切った。そして、読み終わった時。

これは、大学の時。某人間科学部の人たちに勧められて社会学や哲学の本を読み始めた時に似ていると思った。

いま哲学系の本が読めるようになったのは、読める快楽を覚えたのは。とにかく、分からなくても読んだからだ。レイヤを重ねて同じ概念を何重にも違う角度から言及されてぼんやり読めるようになったのだ。今も古典の原書など読めたもんではないけれど。読み切ることはできるようになった。

 

今回は必要にもかられるているし、直接役にも立つ。そして、中身の面白さがわかってきた。

 

何より、僕は大学で読めようになる快楽を知っている。それ駆動で楽しめている。

 

また、大学でのバックボーンに助けられている。中途半端であっちこっちに行っているキャリアだけれど。

 

頑張っていこう。

 

 

 

ティアキンクリア直後感想(ネタバレ注意)

ゼルダの伝説Tears of the Kingdom通称ティアキンをクリアしました。

人生の中で一番やりこんだ1人用ゲームとなりました。クリア後に見れるトロフィー達成率は、65.73%、クリア時間は160時間以上でした。発売してから20日ちょいぐらいでクリアしているので相当やり切った感が出てます。クリア直後の熱いうちに好きなところを書いておきます。

主なやったこと

  • 祠の全開放(称号アイテムあり)
  • 地底地図全開放(称号アイテムあり)
  • 龍の泪
  • 古代からのメッセージ(花の島のやつ)
  • 地底の魔神イベ
  • 地底で手に入る過去作の服のコンプ(たぶん)
  • 精霊の服の解放(マヨイの落とし物イベ途中)
  • イーガ団のイベント(コーガ様討伐)

主なやってないこと

  • 服コンプ、ラムダの秘宝(もし、手がかりがパッと分かるのならコンプしてた)
  • コログコンプ
  • 地底イーガ団拠点コンプ
  • マヨイコンプ
  • 井戸コンプ
  • 図鑑
  • 賢者の意志(確か、18/20)

って感じです。

とりあえず、ざっくり感想。

まーーじで良かった。色々、細かい部分の良し悪しはあるけれど、全体通してのストーリーが好きだった。平和だった世界からゼルダを自分のせいで失い。混沌としたハイラルの中、ゼルダを取り戻す。

プロローグでゼルダの手を取れなかった演出の後、ラウルに手を捕まれ、ゲームプレイで賢者たちと手を繋ぎ、最後の最後にゼルダに向かって手を伸ばし、ゼルダを取り戻す流れが完璧だった。

最高だったところ。グッと来たとこ。

龍の泪イベントで、タイトル回収した瞬間

前作もずーーっとウツシエイベントなしでクリアするなーー!と言い続けていたけど、今回はもっと親切に、探索していたら集まるようになっていて探すの辛くなくて改善されてた(初回のインパイベント探すのは親切じゃないけど)

一つ目の泪から忘れられた神殿までの流れで、タイトルを完全に理解し、パッと見る分かる地上絵を4つぐらい見て、ストーリーをだいたい悟った時がめちゃくちゃグッときた。

サブタイトルのTearsが複数形であること、『龍』の泪というイベントで、ゲームタイトルを回収して鳥肌だった。しかもよく考えたら、ゲームの開始直後、空のエリアを初めてプレイヤーに見せるタイミングで、やたらと龍が見えるように演出されているのも思い出し、そうゆうことなのか。。と、確信してしまった。 BoWの時も、ウツシエシステムによってリンクの冒険ではなく、『ゼルダの伝説』になる。という話をしていたけど、今回はこのイベントによってそれがなされて、内容的にも『ゼルダの伝説』感がマシマシだった。

メインとは関係ないけど、知恵、力、勇気の泉を復活させるイベントでもネルドラ、フレドラ、オルドラの爪を集めることになり、龍と過去の女神との関係性が暗示されて、龍はそもそも人だったのでは。。つまり、トライフォースは秘石ってこと!?みたいな妄想が捗った。

地底と地上の関係性を、理解した瞬間

基本的に、マップを埋めるのを楽しいと感じるタイプで、というか開けないと気が済まないタイプで、今回の地底を開けていく仕様は本当に楽しかった。常に一番欲しいアイテムはアカリバナの種だった。

そんでもって、地底も地上も右半分終わらせたぐらいのタイミングでその関係性に気づいた。

まず。地底の侵入不可能領域が地上の川や湖であることに気づき、良く見たら標高が地上と地底で逆の対応になっている事に気づき、その流れで地底の根と祠の位置が対応してる事に気づいた。

地底のマップは、埋める気でいたのでその瞬間に地上の祠も位置がわかることになる。。。ならば、祠もコンプするか。と、自分の中で決まった瞬間でもあった。

前作は、祠コンプにそうゆう便利な探し方を僕が見つけられなかったので諦めてしまったが、今回はこの探し方ならコンプできるよね?という心の声が完全に勝った。

地上も天空も全部回った後に、祠コンプに何も称号がなくてめちゃ焦ったけどストーリーで祠が追加られてコンプ称号が出てめちゃ嬉しかった。

音楽。特に、音楽の遷移やアレンジ

今回も、いや、もう好きなゲーム毎回言ってるけど音楽が最高だった。空、地上、天空でテーマがあり、そこの間をパラセールで移動するときの音楽遷移がすごく気持ちよかったし、ボス戦の音楽もちゃんとそれぞれ空の場所なら空のテーマが練りこまれてた。

音楽遷移でいえば、各神殿が進捗によって音楽が変わっていき、ちょっとシリアスで狂気感や使命感のある音楽になるのも演出として凄く気持ちが上がった。今回リンクは、前作よりも気楽じゃなくて背負っているものがある。だからこそこの重い音楽という感じがした。

リンクの使命の重さ

ティアキンとBoWは、全然違うゲームだったと思う。同じ基本システムを積んでいるのに、スキルは一新されて遊びが変わっていたり、BoWよりも密度が濃いステージ構成だったり、色々ある。

僕が今回一番思った違いは、リンクというキャラに記憶(文脈)があることだった。それによって、ティアキンの全体のストーリーがかなり重いものになっている。 BoWの設定は、100年間眠っていて目覚めた設定であり、昔の記憶なども失っていた。プレイヤーもリンクと共に、知らない土地を回っている事が自然だったし、知らない土地で仲間を集めてゼルダを助けることが自然だった。

だが、今回リンクは記憶を失っていないし、仲間も最初からたくさんいる。仲間集めでおとづれる4つの地域にもリンク的には、一緒に戦って欲しいという形で話をしに行っているはずで、ただ、各賢者は自国のことで精一杯だから、その地域をリンクが手助けする。 ゲーム上ではゼルダの場所はわからないとか言っているけど、 実際を考えればリンク的には、薄々ハイラルの地下が本命だとわかっているはずだ。

しかも、ゼルダを失った原因は自分にある。よく考えたら最初にゼルダ姫が谷底に落ちてしまったのは、お付きの騎士として帯同していたリンクの力不足である。あの時、手を取れなかったことをリンクはめちゃくちゃ悔やんでいるだろう。そこに重ねて、その力不足の自分を信じてゼルダは人間を捨てている事を龍の泪イベントで知るのである。それを映像で知るリンクを想像してほしい(号泣)

リンクにのし掛かる使命や責任はとんでもないものである。これはBoWの時のどこかのどかな、次はここへ行こう的な雰囲気と全然違う。プレイヤーとしてもその文脈を感じざるを得ない。

ティアキンは、エンディングまでいくとボスクリア前の状態に戻されるのだけど、僕的にはもうクリア前のゼルダが救われていない世界に戻りたいと全く思わない。なので、クリア以降プレイしていない。それは、ティアキンにおけるリンクの使命の重さによるものに他ならない。

ゲームデザイン的にすげーってなったとこ

BoWから明らかに利用用途が増えたスキルたち

体感として5倍ぐらい増えていて。 BoWの楽しさって、スキルを使う楽しさって感じじゃなかったんですよね。でも、ティアキンはスキルをどう使うかを結構常に考えてて、トーレルーフもモドレコもフィールド上で使い所が常にあったから地形を見ながらスキルが使えるか想定していたし、ウルトラハンドに関してはほとんどそれで解決できるので、常に意識していた。 スクラビルドに関しては、もっとそうで常に俺強ぇ!武器を用意したいのと探索で必要な使い捨てハンマーをどう保持し続けるかみたいなことを考えながらプレイしていた。 本当に、スキルを楽しむためのゲームだった。しかも、それがBoWの探索の楽しさに上乗せする形だったのめちゃくちゃ楽しさのシナジーがあった。

スクラビルドによるアイテムの価値の強化

BoWプレイしてて、雑魚敵を倒す意味って後半はほとんどなかったし、雑魚敵から出てくるアイテムをちゃんと使ったことなかっただけど、スクラビルドによって弓にも武器にもバフを付与できるようになり、価値がすごい上がった。組み合わせたらどうなるんだろ的な楽しみもあるし、戦略的に使うこともすごい楽しかった。属性だけじゃなくて、キースの目で追尾性能とかも結構戦略的に使えた。

しかも、弓に関して言えばBoWではプレイヤーとしては雷属性使いたいのに雷の矢がないみたいな事が結構しょっちゅうあって、今回みたいに属性をアイテムで付与する形にしたことでそれが解消されたし、開発側としても矢を設置するだけになったから色々楽できたりと一石二鳥ですごいいいシステムだなと思った。

地底、天空、地上の3レイヤーの設計

この設計が、もう今回の肝というか凄いーーってずっと言ってました。ざっくりいうと、各レイヤーが他のレイヤーの探索の地図になっている!と感じました。

地上と地底の設計

上で書いた通り、地上と地底は地図が全くと言っていいほど一緒です。連動しているので、地底の探索は地上の探索に直結します。祠の位置は、地上の探索においてメインコンテンツなので地底の探索によって、その場所が特定されることは地上の探索を楽にさせます。逆も然りです。これは、地底でもミニマップを地上モードで探索できたりするので、そのように探索するように意図されていると思います。

また、もう一つ地底探索で得られる情報として、深穴の位置があります。 例えば、下のようなマップがその周りのマップを埋めることで浮かび上がることがあり、この場合地底からこの飛び地に辿り着くことができないので、必然的に、地上に深穴があることがわかるようになっています。地底を探索しながら、地上にスタンプを指して次の地上探索に向かうみたいなループが生まれていました。

飛び地になっている地底マップ

ここで、基本的な地上と地底の仕様に立ち戻ると。地上は15ヶ所の鳥望台のイベントをこなすことで、その鳥望台があるエリアが全て開放されます。例え、そのエリアを探索していなかったとしても鳥望台イベントがクリアされていればそのエリアのマップは見えます。

地底は、そもそもステージ自体も光の届かない設定で真っ暗な中、アイテムを使って経路を切り開いていくステージで、上で書いた地底の根と言われるものが140ヶ所ぐらいあり、一つ開けるとその140分の1だけマップが埋まるようなシステムです。

この仕様で、どちらがマップ埋めが難しいか?(楽しいか?)ではなく、難しいかというと、完全に地底です。

地底は、そもそも真っ暗で進んでいる先が行き止まりがあったり、鳥望台がないため、パラセールで立体的に攻略する事が難しい。さらには、地底の根はぱっと見でわかる場所にあればいいですが、目視できない場合もある。 特に、行き止まりについては最初の方は地底探索を楽しくやっていたとしても途中ぐらいから、「ここまで来たのに行き止まりかーーーーー!」と絶望してしまうことが結構あります。

逆に、地上は鳥望台さえクリアできれば、マップは開きます。
なので、地上でマップを開き、地底を探索すると、ほとんど絶望せずにマップ開けに専念することができます。地形が分かれば、行き止まりは少なくとも判断できるので。

つまり、地上のマップは、地底のマップ開けを補助する効果があります。


では、地底の根、祠探索はどうゆう設計になっているか?


地底の根と祠探索を比べると、地底の根の探索の方が楽だと僕は思います。 理由は、地底の根の探索は地上の祠と違って、当たりがつけやすいからです。地底の根を開いていくと、その周囲だけが明るくなるので、暗くなっている部分の中心に開かれてない地底の根があると考えて探索できます。

それに比べて、地上はマップの情報から祠を見つけることはほとんど無理で、地底のマップがほとんど上下の階層がないのに対して多層になっていつため、祠センサーで頑張る必要があります。

つまり。。。


それぞれの難易度が下のようになっており、難易度が低いものをクリアすると、一つ上の難易度の探索が楽になることで、それぞれを行き来するモチベーションが生まれるように設計されてるんじゃないか?と思いました。

【難易度】
地上の祠>地底の根>地上のマップ開け(鳥望台)

【それぞれの関係性】
地上のマップ開け→地底の探索を楽にする
地底の根→祠のマップ上の位置

この辺りに気づいた時に、マジでよくできたゲームだ。と思いました。 マップを開けるのは、地上が楽であり、地上マップによって地底の探索を楽にして、地底の根によって祠探索を楽にする。

この関係があるおかげで、地底と地上を必然的に行き来することになるし。片方だけ集中的にやった場合にも片方のレイヤーに良い影響を与えることになるので、集中的にやったこと自体が後の報酬になっています。

また、地底と地上の関係は。もうキリがないぐらい色々デザインを感じていて。

例えば、序盤に地底を探索しすぎないように地底探索にリミットが掛かるようになっているように感じました。 それが、アカリバナの存在です。アカリバナは、投げると周りを照らしてくれるアイテムで、地底ステージは根がない場所は真っ暗なので、このアイテムがないと探索できません。 ただ、アカリバナは地上の洞窟と言われるエリアと井戸と言われるエリアにしかありません。この二つのエリアと地底のアイディアどちらが先に出ているのか開発者インタビューを見ていないのでわからないですが、絶妙に配置されていて、ほとんど序盤はアカリバナがなくなって地上に戻ることになると思います。

これは、地上と地底の関係性を気付きやすくさせる効果や地底にある強武器でバランスを崩してしまわないような処置だと思われます。

また、このアカリバナの存在によって、洞窟や井戸を探索するというモチベーションを生んでおり、地上で祠やメインストーリーだけじゃない新しい視点を持った中で探索できました。

天空と地上

天空は、今回のティアキンのメインコンテンツです。事前情報からもメインコンテンツでしたし、デザイン的にも天空に新要素を置いている形になっていて魅力的な場所として設定されていました。 特に、注目したいのは古びた地図とゾナウギア製造機です。古びた地図は、地底と天空で話をします。

天空と地上の関係は、地底と地上よりももっとあからさまです。 地上のマップを開ける鳥望台イベントで地上のマップを開けると天空のマップも同時に開放され、鳥望台イベントが終わった時には天空にいます。ほとんどの人が、この 鳥望台イベント直後に天空を探索することになると思います。

あとは、地上を探索していると時々空から落下物が落ちてきます。この落下物の上には天空の土地があることが多く、スキルを使って天空に向かうことができます。

逆に、天空の探索は地上の探索を楽にするデザインとしては、天空の祠のワープを設定していると、地上で行きたい場所を上から探索できるようになります。地上に関しては、上から探索することが効果的であることから天空にワープゾーンを設置できること自体が地上の探索を楽にさせます。

今回、天空がメインコンテンツだということもあって、天空の探索は量が少ない関係上、すぐ満足できるようになっていたり、今回の目玉のゾナウギアを手に入れる場所として必然的に探索するように設定されていたように思います。そこから、地上を立体的に攻略できるようにしていたんじゃないかなと思いました。

天空と地底

ここもすごくて、地底の探索を促すように天空が作用してます。天空の探索で、古びた地図というものが見つかるのですが、これが地底の宝箱を差していて、そこから、過去作の衣装装備が手に入ります。今回宝箱から出てくる最大の報酬が衣装で、過去作をやっている人からしたらめちゃくちゃ欲しいアイテムです。地底の探索は、探索の中ではかなりハードモードではあるので、この目印があるだけで、難しいけど地底に行こう。と思わせてくれます。

また、ゾナウギア製造機についても地底の探索に関わっていて、ゾナウギアを使って探索をしないといけない場面は、地底が一番多いです。 天空は、そもそも素材が必ず置いてあるし、地上に関しては天空と鳥望台で既に立体的に攻略できます。そうなると、地上と同じぐらいの高低差があるのに、上から攻略できない地底が一番ゾナウギアを利用しなければならない場面になります。

この関係が、地底で限界が来たら、天空探索へ、天空を探索したら、地底への流れを作っていました。

井戸と洞窟の関係性

プレイしているとふと、井戸いらなくない??と思うことがあった。でも、よく考えると井戸は必要だったなと思う。というのは上で書いたように地底の探索にはアカリバナが必要なのだけど、洞窟は洞窟で探索コンテンツとしての役割もあるので、序盤の地底の探索のことを考えると手軽に、アカリバナのリソースを補充する場所が必要になる。それが、井戸になっているのだと思う。しかもトーレルーフの使い方のチュートリアルにもなる。井戸のコンプリートというコンプ要素もあるんだろうけど、この地底用リソースの追加とチュートリアル要素が大きいんだろうなと思った。

なんかまだまだ出てきそうだけど、今思うところはこんな感じです。本当に、超たーのしかったー!ストーリー、ゲームシステム含め、これほど練られたものをプレイできて本当に幸せでした。ぜひ、皆さんもプレイして体感してみてほしいです。

分岐点

 

今、自分が分岐点にいると感じている。

ただ、それは本当に分岐点であるかどうかは未来から過去を見ることでしかわからない。

 

というか、そもそも分岐点とは何か。例えば、自分の生活が大きく変わったタイミングみたいな事ならば、確かにそうかもしれない。そうゆうポイントは確かにある。例えば、引越しのような。結婚のような。

ただ、未来から見ればそんなものは、きっと些細なものに見えるはずだ。理由づけられ、なんとなく筋道が立っているように思えるだろう。

そんな事よりも、今この分岐点らしきものに立ち、どのように振る舞ったか。その振る舞い方が大きく自分を作る気がする。

 

変わったという結果ではなく、そこに対してどのように振る舞ったかが。未来の自分を勇気づける。

 

過去の自分のその振る舞いが、今自分を勇気づけているように。今、こう振る舞った。そのことがとても大事なんだと思う。そのことがとても価値のあることなんだと思う。個人にとって。決断に価値があるではない、その過程。その時の振る舞い、その時の決断の仕草が未来に残る。

 

 

将来どのようになることを恐れていますか?

 

 

将来、どのようになりたいですか?

 

という質問は、よく言われたし自問したりするけれど。どのようになることを恐れているのか?という否定系で聞かれることはなかった。

 

ひょんなことからその質問を受けて、自分の中で準備してない回答が出たので面白かった。(そもそもそんなに準備はしてなかったけど。)

 

この『なりたいのか?』と『なるのを恐れているか?』二つの質問だけれど。

 

否定系の方が回答する側の解像度が高い気がした。その二つから得られる知見や回答の中身は大体同じなのだけれど。否定系の方が具体的な回答になる。少なくとも、僕はなった。

 

肯定系は否定系よりも、自分の存在するエリアが閉じている。あるエリアを指定し、その中にそうありたい自分がいる必要がある。否定系は、あるエリアを拒否するので、否定系の方が自分に開かれているエリアが広い。ように見える。

 

そもそもこの質問自体が二つとも、自己言及的な質問でかなりパワーを使うし、その質問によって回答者は動揺せざる得ないものである。

 

具体的には回答者は、『自分は本当にそうなりたいのか?/なりたくないのか?』という問いに取り組む必要がある。

 

この時、自分のエリアをできるだけ保持したいと思う場合、肯定系ではできるだけ指し示すエリアが広くなるように。否定系では、できるだけ小さくなるように答える。

 

つまり、確信を持って答えられる指し示すエリアが肯定系だと広がるが、否定系だと狭くなる。

 

これによって解像度が上がっている気がする。否定系の方が、明確な言葉を使った方が確信の持てる自分のエリアを確定できる。

 

つまり、否定系は具体性を増せば増すほど不確実性が小さくなる。その回答で引き受ける不確定性が解像度を上げる方向性にある。これが、否定系の良さなのだと思う。

 

恐らく、これは自己言及的な質問以外にも言える。自分が正しい事を言っている事を確信したい時、より具体的な対象に否定系を用いる事はないだろうか?あれは多分同じ効果がある。

 

場面によって、それぞれ使い方があると思うけど。話をこの質問から発展させていこうとする場においては否定系の質問は有効かもしれない。相手の心理的な安全性を確保しつつ。具体的な対象がでて発展させやすい。

多摩美の連続講義で久しぶりに『大学』を感じた

 

2021年も終わりですね。今年はマジで厄年でした。やることなす事上手くいかず。あーー!厄年!と最後の方ずっと言ってました。

 

そんな自分の事を考えることが多くて視野が狭くなってた矢先。多摩美術大学の連続講義が始まって、ちょこちょこ見てたのですが、これ是非見てほしい。本当に良いので。

 

講義は全て、youtubeアーカイブされてます。12月から上がりまくってて最終50講義ぐらいになるようです。

 

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東京ミッドタウン・デザインハブ第94回企画展「Tama Design University」 by 多摩美術大学 TUB

 

自分が最後まで見て面白かったモノをいくつか挙げます。

「なぜ私たちは画面の中に質感を感じるか?」講師:中村勇吾 - YouTube

「完成を目指さないデザインとは何か?」講師:岡崎智弘 - YouTube

「感度・解像度を高めた情報の読み取り/表現とは何か?」講師:濱田芳治 - YouTube

 

普通に、1時間占有してくるし、多摩美所属じゃない人もいるので、刺さらない講義もあるのですが。面白いものもあります。まだまだ見てないものばかりなので僕も探し当てれてないですが。

 

上にあげた講義どれも、『大学だーーー。懐かしい。』と思う部分があって。自分を持ち上げてくれる内容でした。

 

紹介した一つ目と二つ目関しては、やってることのスケール感や、役に立たないものを実験をして何かを見出していく感じとかに大学を感じて。もっとでかい構えで捉えないと、面白く転がってかないよなーと思わせてくれる講義で。

偶然にもどちらもNHKの『デザインあ』を担当している人で、この人らがやってたら、あんな哲学を感じる形になるわな。。と思いました。

 

3つ目の感度・解像度を高めた情報の読み取り/表現とは何か?は、物の見方を変えるには今の身体ではダメだ。では、どうしたら今の身体を壊して新しい身体を手にできるか?を多摩美生に講義で試していて。それを紹介してくれるという内容です。

 

これが超好きで。そうだ大学って気軽にこんな人体実験みたいな事される場所だったーーーうわーー!ってなります。

 

そもそも何かを学ぶは自分を壊す事なので当たり前なんですが今振り返れば、自分の大学生活も心の揺り幅が大きい時間だったなー。と思います。

 

是非年末年始見て、50講義の中で面白いやつあったら教えてください。一覧を見るだけでもテンション上がりますよ。

 

でわ。

 

 

CDアルバムを聴く時、私は何を聴こうとしているのか?

音楽を聴くとき、何を聴いているのか?

 

未だに、音楽サブスクは登録せずCD音源をスマホに入れて聴くのと、youtubeで聴いている。けサブスクは入れてないのには特に理由はない。

 

最近、CDアルバムの音源を聴く時、必ず1番最初から聴きたくなる。なぜか?

 

二つを比較して考えると僕が聞きたいのは、『私のいない音楽』なのだと思う。

 

youtubeはあまりにも私の履歴を感じさせる。もっと言えば、他人の履歴、他人の作ったカテゴリーと私との関係を感じさせる。

「あー。この曲たくさん聴いてたのね最近」とか、「この曲は、あの曲と似ているのね」とか。

 

CDアルバムは、そこを切断する。選択したら最後、作者の意図だけが流れ込む。私は、一時置いてかれる。視聴者は私を感じなくていい。

 

youtubeという圧倒的に、開けた世界なのにも関わらず、CDというアナログで制限が明確のものの方が自分という枠を超えて音楽を“聴かせ”にくる。

 

『自分が選んでいる以上、CDにも自分の趣味趣向が反映されるじゃないか!』

 

 

そうなんだけど。

 

その趣味趣向というレイヤーの話ではなく、もっと具体的で瞬間的な。実際に具体的に聴いているその瞬間に「私」を感じるかどうか。

 

youtubeに流れるものは、必ず、今聴いているその音楽さえも「私」というタグがついて保存される。疑似時に自分が編集したような音楽リストを聞くこととなる。

 

むしろ、私が選択した。という、意思よりも「私のデータベース」が優先されてしまう気持ち悪さなのかもしれない。

 

CDアルバムを聞き始めるという「自分の意思によって、この音楽を聴くという事を変えられない状態」を作ったのが、「私の選択」である事が大事なのかもしれない。

 

過去の私の蓄積に、今の私の意志が埋もれてしまうような感覚、気持ち悪さを、私以外の意志、意図に身を任せる選択をすることによって固定化する。今の意志の継続と、その意志の意味の大きさを感じるために。

 

これは音楽以外にも当てはまる。映画を観る、本を読む。その瞬間に、私は存在しない。

 

時間が流れることを、私が次の私に遷移した事で感じるならば。youtubeやその他広告はすぐに次の私に遷移させようとする。

逆に、他人に身を任せるその瞬間は、身を任せたその『今の私』が維持され、timeとしての時間は折り畳まれ、その私の中に収納される。

私が変わらなければ、私が認識しなければ、時間は流れていようが流れていまいが関係ない。事後的にtimeとしての時間が流れたことを知るだけである。

 

と、この辺まで書いて。

そういえば、『心にとって時間とは何か?』を買ったけど読めてないんだったと思った。なんかその辺の話だった気がする。読もう。