人生の山中にて

とりあえず、書きたくなったら書きます。

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展・藤村龍至編

現在知:郊外 その危機と再生 三浦展藤村龍至

目次

  1. 郊外という論点

郊外を生きる:三浦展×馬場正尊×水無田気流×清水健

論点としての郊外地図:門脇耕三

郊外論/故郷論-虚構の時代の後に:浜崎洋介

『郊外の危機』とコンビニの可能性:新雅史

  1. 郊外再生の現在地

ケアの空間を地域のコアに:上野千鶴子インタビュー

建物・人・お金を再起動させる仕事:鈴木雅之

多摩ニュータウン再生:松本真澄

なぜここだけが生き生きとしているのか:田中元子

  1. 郊外から日本の未来へ

朽ちる郊外の再生戦略:根本祐二インタビュー

郊外住宅地再生への挑戦:東浦亮典

コミュニティアーキテクトを目指して:水谷元

くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?:柴田健

 

三浦展さんと藤村龍至さんが編集をしているが、上野千鶴子さんなど社会学系や建築系の人たちの対談形式の文章と50pぐらいの単著の文章が並ぶ。単一視点じゃなく、複数の視点から同じテーマである郊外の問題や最近の動きについて社会学、建築、計画系、公共インフラ系から語られている。同じ郊外というテーマだから、お互いの意見が相反する場合もあったり重複したりして文章ごとが繋がって頭に入ってくる。ただ、どの人たちにとってもこの郊外という場所での動きが、面白いテーマであることが伝わってくる。基本的な背景としては、均質な、快適な、選択可能な場所としての夢の終着点としての郊外が、社会学で言う夢の時代から虚構の時代に移り変わり、その虚構の均質性が変質して漂白されていた問題点が浮き彫りになっていく。現在は、それだけではなく高齢化や都市回帰による空き家問題など郊外をどのように“畳む”か、“再起動”するか、“持続可能”にするか?という議論がなされている。

 

全ての議論を網羅して書くのは難しいので、とりあえず気になったものをピックアップする。まず、1の”郊外を生きる”では、そもそも郊外は、安全であるのか?子育てに適した場所なのか?という速水さんの指摘をそれぞれの対談者がその切り口について話をする。郊外は、ヨーロッパから始まり子育ての際の都市的な悪からの回避(家族主義)と自然を求めて郊外へ行くのが始まりである。この都市的な悪が誇張されているのではないか?そもそも、現在は子育てに関するリソースは都市のほうが多くあり、そのようなリソースへのアクセスも都市に住むほうが簡単である。また、交通事故も郊外と都市統計的に変わらない事が示される。その中で、では、郊外はなくなっていいのか?という話になり、最終的に郊外の都市化について議論があり対談は終わっていく。ここでの“都市化”とは“都会化”と異なる。“都会化”とは、消費の場としての都市のようになることを指し、ショッピングモール等は郊外の都会化と言える。それと逆に”都市化”とは、生産の場としての都市を指しており、郊外で生産を行う。つまり、郊外で住んでおり、郊外で働く職住近接の形をもっと作っていくべきであるという話である。また、郊外は私有意識が強すぎる。ことも指摘されていた。そのため、公共を作り出すことが難しい。ただ、均質的な、選択した、与えられた、住むだけの場所(私有空間)ではなく公共性をもった場所としてどのように再生産していくか?という事も今後考えていく必要がある。(これは、2の”なぜここだけいきいきしているのか?”で書かれる”ユーカリが丘ニュータウン”が一つの解をだといえる。)

 

次に、郊外の絶望をえぐるように書かれた章が、”郊外論/故郷論-虚構の時代の後に”である。まず、ニュータウンとは上述した夢の時代の産物である虚構の街である。そこには、選択可能で偶有性の高い、ここ以外でもありえた感の高い街であり、それを自分の故郷とするために必死に演技をする街が出現する。建物は均質であり、住む人も居住時は同じような年収で同じようなサラリーマンの父と主婦の母をもつ家庭である。(しかし、この”同じような境遇の人達”はどんどん変わっていくことが3の” くぬぎ台を住み継ぐのは誰か?”で示される。) そこには、”地域の人”というものはなく、いたとしてもその地域の人が居場所を提供することはない。子供にとったら、家族軸と学校軸しか持たない街となる。(これは、江 弘毅のいう街的な場とは対照的な場である)。そのような場で、家庭崩壊がおき学校でもダメとなると子供は居場所をなくすことになる(宮台真司は、その先に第四の空間という都市的現実に子どもたちが解き放たれたとしているらしい(引用元:まぼろしの郊外,セクシュアリティの社会外))。この家庭に閉じ込められた中での学校軸がなくなり行き場を失った最終的な極点として、酒鬼薔薇聖斗が誕生したとしている。この虚構の街は外部が入り込む余地を残さず、自身が外部を自認できないことで内閉してしまう。その外部性を回復されるためには、上述した偶有性が高い場ではなく、この場所でなければならなかった。という外部からの要請(場所や人の歴史)が必要であり、与えられた何かに自分が溶け合おうとする経験が必要だとする。

最終的に、この著者は郊外の均質性や漂白された場が汚くなっている事を見てそこに”死”があることを見出す。ここから、郊外が”歴史”を持つ場となりうるとし、故郷になりうる場所だとして文章を終える。

ここからは、僕の個人的な話だけど僕は田舎の郊外というべき場所に育った。第四の空間というものは存在しなかったし、地域の人というものを自覚したことは無い。(友達のお母さんぐらいだ)しかし、僕には学校軸の充実があり、家族軸の充実も幸いにもあったため何も窮屈は感じなかった。しかし、中学校時代には謎の中高生のヤンキー集団があり、夜はバイクの音がなっていたりした。あれは、たぶんそこ学校と家族軸を失った。第四の空間を田舎なりに作ろうとしていた子供達だったんだろうなと、今になって思う。

 

最後に、上野さんと藤村さんの対談である。上野さんはいつもどのようにソフトライディングするか?という問いをもっている。(以前読んだ、古市さんとの対談本である”上野先生勝手に死なれちゃ困ります。僕らの介護不安に答ください”にもそのようなスタンスだった。)。郊外のたたみ方について藤村さんは建築から上野さんは社会学的にその可能性を話し、建築の人たちは建物から人がどれほど移動するかを考慮していない、もしくは距離だけで考えている。と批判し、社会学的に郊外の人たちが思ったよりも移動していることからもっと大きな規模でまたは、距離だけでなくもっと違う心理的な問題を把握すべきだと話をする。その前提の中で、心理的なハードルをいかに下げてアソシエーションによって結ばれる空間を作るか?という問いに移り。事例を踏まえて話をする。上野さんの結論としては、ケアをそのコミュニティに置くことで人が必ず出入りする空間を作ることができ、その関係を利用して新しい仕掛けを作っていけばいいのではないか?としている。ここでのケアとは、学童や介護などを指し、居酒屋状態である加入脱退が自由、強制力がない、包括的コミットを要求しなアソシエーションのある場を創造すべきだとしている。

 

このような感じ。とりあえず、地方分権が進んできており、独立自立したコミュニティというのも成功しつつある。僕としては、郊外を都会化ではなく都市化するという流れに期待したい。その都市化は、地域のための生産であってもいいし、それ以外であってもいい。とにかく、距離が近く、働きながら精神的に住む街に馴染めるような場が増えるようになって行ってほしい。これは、僕が石橋の近くで住んでた事がとても影響しているなと読みながら思った。

 

メモ

地方は、ハードの導入ハードルが小さい

→知識や人材、アクティビティがあっても土地が高いからハードが入りにくい。

地域のインフラを民間に預ける。その民間は、他の地方自治体にもサービスを提供している。

 

名言

学童とは、いわば子供の居酒屋,上野千鶴子

出典している本、論文

朽ちるインフラ

家族をいれる ハコ家族を超えるハコ

東京は郊外から消えてく!

次世代のアメリカの都市づくり

ケータイ小説的。

公共性の喪失

まぼろしの郊外,宮台真司

透明な存在の不透明な悪意,宮台真司

つながった本(未読)

つながった本(既読)

飲み食い世界一の大阪 ~そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの~

→居酒屋、お好み焼き屋さんは街の先輩に会える場所。地域にあるもう一つの居場所

 

検索したくなるワード

夢のみずうみ村

武蔵野市 テンミリオンハウス

神戸市 真野地区

横浜市 NPO支援

アートコミュニティ 美浜

ユーカリが丘

コミュニティリビング;IOG

定年ゴジラ,重松清