人生の山中にて

なんかあったら、書く

無限な私の有限な部分-ハイドをどのように引き受けるのか-

欲望会議超ポリコレ宣言を、読んでポツポツでてきた事を書いておく。本当にいい本でした。

 

 

犯罪者がいる。DV夫がいる。引きこもりがいる。自殺者がいる。全てのこれらの人たちの延長線上に僕はいると本当に感じている。それは人間だから、という共通点からくる可能性の話ではなく。自分の中にこれらの人になりうる要素をバリバリに感じる。そこに断絶はない。

 


ただ、僕は同時に彼らとは全く違う。それがなんなのか分からなくて不安だった。一歩違えばそのようになるのではないかという不安だ。一つ違いをいえば、当たり前だが、経験が違う。彼らの経験を僕が同じように得ることはできない。自分の中に感じる彼らの持ってるだろう要素を理解することはできても彼らそのものをそっくり理解はできない。

 


一人の人間には無限の可能性がある。例えば、僕の左上の歯だけを切り取れば虫歯。そのトリミングを口にまで広げれば、ぺちゃくちゃうるさい奴。この人間の呼称といえばやまゆーやらゆうすけやらだ。このように細分化するのは無限にできる。ただ、指定したり、評価するときは有限化しなければならない。ぺちゃくちゃうるさいだけでは無限の私を表現できないが、私のしゃべりだけにフォーカスしたらぺちゃくちゃうるさい奴という形容はありうる。

 


僕を有限化すれば、引きこもりも、DV夫も、引きこもりも、自殺も、殺人さえも、全然ある。ある部分をトリミングすれば引きこもりのやまゆーは確かに存在する。ただ、実際に動くのは無限の存在である私だ。無限に表現できる私なのだ。

 


無限の存在である限り、誰にも理解される事は出来ないし、自分自身の傷つきも気づきも行動も誰にも代替可能ではないはずなのだ。もし、代替可能だと感じるのならばそれは自分自身を一時的に有限化して共有できるようにしているからだ。例えば、僕の虫歯が簡単に治療できるのは人間の歯という私の一部として有限化してるからだ。

 


なので僕は彼らの悩みも苦しみも、理解できない。ただ、彼らの有限化された一部分を無限の僕の中の有限化された一部として見ることはできる。そういう意味で、彼らの一部を理解する事は出来る。そして、その中には共通化可能なものもあるだろう。

 


ロバート・ルイス・スティーブンのジキルとハイドの物語の中で、ジキルは善良な自分自身の陰にハイドを、見る。そして、ハイドを具現化させるための薬を開発し、二つ目の人格としてのハイドを実際に持ってしまう。善良なジキルと相反する悪業をするハイドを持ってしまうのだ。

 


よく話されるジキルとハイドの比喩は、ジキルの善とハイドの悪との人間の中の二面性を指したものだと思う。ただ、実際の物語の中でのジキルとハイドの関係は比喩の状態とは少し違う。先ほど話したように、ジキルはハイドの要素をも含んだ無限の存在だが、ハイドはジキルから切り離された悪しか持たないジキルの一部、有限な存在だ。だから、ジキルは無限な存在として悩む。苦しむ。そして、最後はハイドに完全に変わりたいという欲望に負ける前にジキルとして自殺する。

 


なので、ジキルとハイドは善と悪ではなく、有限な存在と無限な存在の対立しても見ることができると思う。ジキルは自分自身の無限の可能性に耐えられなかった。善良である自分の中に闇がある、傷がある、無意識があるその状態に耐えられなかったのだ。ハイドのようにある有限で許された範囲で、暴れる欲望に負けてしまった。

 


僕らというか全てのものは無限な存在だ。そして、どのようにも可能性は広がっている。この中で、僕の一部として闇を持つことは問題ないはずだ。というか持ってしまうだろう生きている間に。その有限化したら悪である部分を閉ざすことは私の無限の可能性を多分、狭める。健全な私という有限な私でしか、活動できなくなるということなのだから。

 


ただ、当然のごとく社会的には悪なのだ。(これが悪とするかどうかは別議論として)この無限の中にある悪の自分を(同じように、善なる自分を)どのように引き受けるのか。ジキルができなかったこの有限な自分たちの引き受けをどのようにすれば引き受けられるのか。

 


カナダ行ってからずっと考えてるそんなことを読んで、また、考えた。

 

 

 

ちなみに前も書いた気がするけど。

ジキルとハイドでは、ジキルが最初にハイドになる瞬間の描写の中で、「善人になることを願えばそうなれた。」というようなことを書いている。つまり、ハイドがジキル以上に善良になる可能性もあったのだ。このハイドが善良なストーリーは、結構想像したら面白い。逆ジキルとハイドと勝手に呼んでいるのだけど、結局ジキルは同じように死んでしまう気がしている。そしてその理由は、無限の自分と有限の自分の対立が原因になる気がする。