人生の山中にて

なんかあったら、書く

何かを変えることが難しい事の元凶

前回の投稿2020年1月でびっくりしてます。山中です。

この一年。仕事が学びに溢れ、とても良い一年でした。今年はもっと単純ではない一年のような気配がしています。 (と書いたのは6ヶ月前で、本当に単純な年ではなかった。)

Fortniteにはまっている

タイトルとは全然違う話が始まったと思ったかもしれないが、そんな事はないので安心して欲しい。 twitterとか見ている人は、そんなことは知っている。みたいな感じだと思いますが。世の親世代の人から恨まれまくっているであろうFortniteというゲームにはまり、1年間ほぼほぼ毎日プレイし続けました。1年プレイし続けたのは将棋ウォーズ以来ですね。 超楽しいです。ゲームによる学習は麻薬という言葉がありますが、まさに、学習する快感に埋もれている状態です。   

ゲームにおけるボタン配置の変更

引用元: https://gamewith.jp/fortnite/article/show/122541

最近のPCゲームは昔のコンソールゲームと比べてできるアクションが大量に増えています。 昔のマリオはABと方向キーだけでアクションは事足りていましたが、今や、ゲーム上で行えるアクションの数が多すぎてコントローラに当てはめることができないゲームが出てきたりしてます。
さらに、行えるアクションの多さもさることながら各アクションの役割も全て重要な役割を担っていて、ボタンの数が足りません。 これによって、PS4やSwitchなどコンソールに移植するのが困難なゲームもあるほどアクションが複雑化しています。
そこで話題になってくるのが、ボタン配置設定です。アクションをどのボタンで行うかを設定できる機能で、どのゲームにおいても存在し、プレイヤーにとって大きなトピックになっています。

ものすごく簡単に言うと、「車のアクセルとブレーキを入れ替える」「ウィンカーのレバーを逆にする」みたいな事を設定できて、変更することで操作性を変えることできます。

Fortniteも例にもれず。コントローラにどのアクションを割り当てるかというのが一つのトピックになっています。

ボタン配置を変えた時、身体が浮き彫りになる。

僕も何度か、大きなボタン配置の変更を経験したのですがその時の自分の反応がとても面白かった。

車で例えると、ウィンカーのレバーのアクションを左から右レバーに変えただけのはずなのに、ハンドルは顕著に、ブレーキとアクセルさえも、どのように使っていたのか分からなくなりました。

本当に体験してみると面白くて、「思わずコントローラーを目で見てしまう」「ずっとボタンを連打してしまう」「身体全体が一瞬硬直する」などなど、笑ってしまうほどに散々な体験でした。(車で例えると怖い話)


当たり前ですが、ゲーム上では一つのアクションが、一つのボタンと一対一で対応している一方、身体の動作は一連の流れの中にある。


一見すると、分離可能な動きも身体の無意識の動きによって支えられている。この無意識の動きは、普段プレイしている時には意識されないんですよね。でも、ボタン配置を変えたとたん意識できるものに豹変する。

この現象って、よく「道具」として例えられて、正常運用時「道具」が意識化される事はなく、壊れた時初めてその「道具」が意識化される話と似ている。 一点違うのは、ボタン配置による道具の意識化は、「道具が壊れた」からではないという事だ。


言うならば、ボタン配置によってコントローラーが正常を再規定した事により、身体が壊れる。正常の強制的な規定による自己破壊が起こるみたいな現象だと思うんですよね。

行為を能動的に忘れようとする時、その行為の全てを知り、その行為の本当の価値を知る

ボタン配置によって壊れた身体を新たな正常に適用させる時、自分の身体のことを事細かに意識する事になる。そして、正常の動作を上書きしていく作業は、忘れようとする動作を意識する事とほぼイコールであり、「自分がどれほどの強度で小指や薬指でグリップをしていたか」、「Aボタンを押す時、どこにどのように力が入っているか」 これらを目の当たりにする事になる。
さらに、無意識に行われていた身体の動作の発見は、往々にして自分の想定しているよりも多く存在する。(無意識であるが故)


それと対照的に、刷り込む新しい配置のボタンの一連の身体の動きはまだ確定していない。なので、習得する動きは「新しい配置のボタンを押す」だけのようにみえる。最終的に習得した際には、はたくさんの無意識の行為に支えられるはずなのに。


そうなってくると、忘れようとしている行為のメリットがとても大きく感じる。 実際にボタン配置を変えるとすぐに、めちゃくちゃ元の配置に戻したくなる。というか、大体戻す。あまりに、慣れ親しんだものであり、かつ、今は以前よりも意識的にその価値を知っているから。

明らかに変えた方がいいことが、変わらない理由

ボタン配置の話を延々としたけど、これがFAXがなくならない理由だし、メールからチャットに変わらない理由なのではないかと思った。
何かを辞めようとする時。一番その辞めようとする物の価値がわかる。比較検討した末に、変えるトライを行った時に新たなメリットがたくさん掘り起こされてしまう。そして、変える先のメリットは慣れるまでは気付けないし、内面化されない。
誰しも、メールの件名の価値を再認識するだろうし、フォーマットもなく蓄積せず流れていくチャットよりも、フォーマットがあり蓄積されるメリットをより自覚してしまう。
これが、何かを変えるときの慣性の元凶であり、この慣性が何かを変えることを拒んでいる。目の前にいる保守的な人たちは、現状のメリットを自分たちよりもより正確に知ってしまったが故に変えられないのだ。
別に、全て変えてけみたいな話ではないのだけど、何かを変えるとき、変更先には無意識の行為の蓄積は即時に構築されず、本当に移行した後に感じるメリットが目減りしている。というのはちゃんと考えていいことかもなーと思った。

以上。山中は苦しいながらも元気です!またなんか書こうー。